フィリピン
 
マニラ湾の夕暮れ パワワン島のマングローブ 米国が基地復帰を狙う?
ジェネラルサントス空港
初のレコーディング
 
マニラのハリソンスクエアでは、800円ほどでカラオケCDを録音編集してくれる。
「カラオケキング」という店で、練習時間、レコーディング、編集時間を含んで40分ほどで写真や曲名入りで作ってくれる。
筆者のファースト・アルバム
「KEN MATSUDA ON STAGE」
非売品

 マニラ動物園の動物達がやせ細っているといううわさを聞いて見に行った。
しかしマクドナルドの食べ残しなどを食べており異常に太った動物が多かった
 
 マニラのニセモノの「伊勢丹」の入り口で NNとNがひとつ多いのがマニラのイセタン
男性差別
 
マニラの軽鉄道(LRT)に女性専用車両が登場。男はぎっしり、女だけはすいた車両に乗れる。
   
 
   
電気も無い家が多いBANTAYAN island
 
ドイツ人に招かれ2002年3月出かけたバンタヤン島
セブ島の最も北部の町であるボゴ(BOGO)という町までセブ市から車に3時間
揺られ、そこから1時間半ほど日に3便ある船に乗って行くホワイトビーチ
   
CEBUからバンタヤン島に到着
 
   
電気も無い家が多いBANTAYAN島からはフィリピンのセブ島とネグロス島が遠望できる。
セブ最北のボゴ(BOGO)という町までセブ市から車で3時間、そこから1時間半ほど日に4便の船で行く。
 
ドイツ人経営のリゾート STAY 4NIGHTS PAY 3NIGHTSの創業キャンペーン中
 
Marlin’s Beach Resortオーナーの
シルベスター夫妻
 フィリピン中央部のセブ島とネグロス島の中間にあるバンタヤン(BANTAYAN)島。バンタヤン島の人口は12万。最大の産業は日産140万個採れる鶏卵で、近くのセブ島やネグロス島に「輸出」している。バンタヤン島へはセブのマクタンの空港から週数便ある航空機で20分ほど。車と船を乗り継いで行くと4時間以上かかる。バンタヤン島に車で行くにはフィリピンのセブ島の最も北部の町であるボゴ(BOGO)という町までセブ市から車で3時間揺られ、そこからさらに1時間半ほど日に4便ある船に乗る。 シーエア(SEAAIR)という航空会社が週3便運行、25分間のフライとタイムで運行しているが、近くマニラからもエージアンスピリッツが運行される。Marlin’s Beach Resort という13室だけのリゾートがあり、経営者はミカエル・シルベスター(MICHAEL SYLVESTER)氏。11月1日から4月30日までのハイシーズンにはスタンダードの1,150ペソ、ローシーズンには890ペソ。朝食は140ペソ、ディナーは150ペソ。ドイツ風のうまいメニューが用意されている。 バンタヤン島に向かう船はオンボロだが、50人ほどの乗客より荷物の運搬を重視しているようで、私が乗り込んだ時には、ナショナルの家電製品やカワサキのオートバイをこんなに積んでも沈まないのかと心配になるほど満載した。 
 シーエアはたびたび欠航するが近くマニラからの便が就航する
   
セブ島経済の現状
 
 マクタン島では日本のエノモト(半導体リードフレーム大手)が工場を建設している。
エノモトはマニラ近郊のゲートウエイ工業団地でかねて操業しており、マクタン島の工場は同社のフィリピンでの第2工場となる。エノモトのフィリピン法人であるエノモト・フィリピンでは、セブのマクタン島で三井物産が開発した「CLIP工業団地」内に工場用地を数年前に取得していたが更地のままにしていた。だが昨年から新工場建設に着工し、2002年6月に完成、7月には操業を開始する。このセブのマクタン島に建設中の新工場ではリードフレームではなく、金型製造に力を入れるという。また、マクタン島のマクタン輸出加工区(MEPZ2)では宇部興産の子会社である宇部エレクトロニクス(UBE Electronics Phils.)も昨年から操業開始している。

 アロヨ政権では貧民対策として労働組合などの問題でも労働者側に立っており、派遣労働者の雇用規則を今後厳格に運用する方針を打ち出した。これはフィリピンで操業する日系大手企業にとって頭が痛い問題になっている。これまで雇用調整弁として派遣労働に頼っていたセブ島のミツミ電機、NECなど、従業員数が多いエレクトロニクス企業にとって大問題になっている。ミツミ電機ではセブ島の工場に1万5,000人、マニラに近いバターン工場で6,000人の従業員を抱えているが、当局がこの取締りを始めると従業員数が多いだけに大幅な人件費アップとなる。

 このようなアロヨ政権の姿勢に嫌気している日系の大手企業も増えてきており、今後フィリピンを撤退する日本企業が出る公算もある。フィリピンの労働雇用省は、今年に入って請負契約に対する新規則を決定(D018-02,2002)した。この新規則では,あらためて「労働のみ契約」 (Labor Only Contracting) の禁止を明言した。人材派遣契約や人材派遣業も禁止される。

「フィリピン日系人会支援の会」が窓口となり外国人労組を設立
 
 千葉県銚子市に九九年二月に設立された「フィリピン日系人会支援の会(FJDSA=Filipino-Japanese Descendants Support Association)」が活動して、このほど千葉県労働委員会から「外国人労働組合ビリーフ」が認定された。フィリピン残留日本人を対象として国籍確認、日本への定住の世話を行ってきたFJDSA理事長の宮内章光が当面の同労組の代表を務める。

 FJDSAの世話で就労ビザを取得して日本に入国した一千百人余の日系フィリピン人を対象に組合加入を促すとともに、在日中国人、台湾人、インドネシア人のワーカーにも呼びかけて「年内にまず三百人くらいの組織にしたい」と、同労組設立に動いてきた宮内章光FJDSA理事長。組合費は月三千円、年三万六千円で、死亡時には三百万円の見舞金を出す。

 「外国人労働組合ビリーフ」の住所は千葉県旭市ロ385、電話0479−62−3778。(注:ロはカタカナでラリルレロのロです)当面旭市の本部から活動するが、近く千葉県や茨城県各地、日本全国へと支部を設立していく方針。宮内氏によると、千葉県には五万以上の外国人労働者がおり、この銚子では百人のワーカーの内で実に三十五人もが外国人。

 FJDSAは二〇〇〇年に特定非営利活動法人=NPO(Non Profitable Organization)資格を得ている。宮内理事長によれば、「FJDSA設立の時点からこのような労組を作る必要性は感じていた。最近、自動車事故で亡くなった日系フィリピンに対し日本人とまったく異なる保険料を提示した大手損保に対して弁護士を通じて交渉、差別させない解決ができた。人が働く以上、何が起きるかわからない。また先に組合を作って置くことで問題がある雇用主企業などとも交渉しやすくなる。今後は不法労働者のストも増えていくと思う。労組を毛嫌いしているような時代ではない」としている。

 「外国人労働組合ビリーフ」では東京に事務所を置く伊東孝之弁護士を組合顧問弁護士とした。また中国語関係の通訳は千葉県に住む台湾国籍の葉麗眞さんが担当する。さらに、日本だけの活動ではなく、フィリピンの労働者連帯運動(LSM)に属する労働センターであるLORD(レーバー・オーガニゼーション・フォア・リフォーム・アンド・デモクラシー、改称前の名は“労働者の汗”、マヌエル・メンドーサ委員長)とも提携した。

 FJDSAとしては、これまで日本人と同じ待遇で企業と日系フィリピン人の間で契約してもらうなど、労働基準局と職業安定所にも相談して日本の労働法上で問題がないように務めてきた。給与、賞与だけではなく健康保険、厚生年金も日本人社員と区別させていない。新設の「外国人労働組合ビリーフ」でもこの方針で外国人ワーカーの権利を守っていく方針。

 なお千葉県地方労働委員会が「外国人労働組合ビリーフ」をわが国の労働組合法第2条及び第5条2項に適合する組合として資格証明書を交付した日付は平成13年9月26日。千葉県での認可だが全国に支部を設立して活動できる。

 「外国人労働組合ビリーフ」は千葉県初の外国人労組。同様の労組は東京に一九九三年に設立されている国際互助組合ブライトがあり不法労働者の加入が多い。

フィリピン・セブ島をベースに高級家具作り モビリア・フィリピン(MPI)
 
 フィリピンは歴史的にスペイン、米国などさまざまな文化がミックスされてきた。フィリピン人のデザイン力や色彩感覚が世界をリードするイタリア人に通じる面があるとされているのもこの。このフィリピンのごっちゃまぜ(ハロハロ)文化の素地を利用した家具製造で最も成功している会社がモビリアであり、私、松田はかなり以前から数多く同社の唯一の製造拠点であるフィリピン・セブのマクタン島にある同工場に出入りさせていただいている。

 モビリア(MOBILLA、小平進代表、本社横浜市港北区新羽町1288、電話045-542-5751)は高級家具メーカーで、日本の裕福層の家や一流ホテル、大手企業の役員室、役所、ホールなどに多数納入され、同社の家具のファンが多い。モビリア・グループ代表の小平進氏は、1936年生まれ。1959年に慶応大学経済学部を卒業し日興證券に入社したが、昭和40年に退社、翌66年にモビリアを設立した。

 同社は1970年に化粧品の製造販売に進出、77年にハワイでゴルフ場経営も開始、1990年にフランスジャン・コクトーの映画「美女と野獣」の舞台になった古城を取得(パリ)、それを4星ホテルに改造した。そしてこの城をクラブハウスにゴルフ場もオープンさせた。フィリピンでは50年間に渡って使用権を取得した離島も保有している。

 1989年8月、フィリピンのセブに初の海外法人を設立、進出した。90年から10人だけの従業員で生産を開始した。MEPZがオーナー経営者である小平進代表は、1985年から同社工場があった横浜でフィリピンの名誉領事を務めていたことから、「フィリピンの役にたてる事業ができないものか」と考えてセブ島のセブ市の対岸でセブ国際空港もあるマクタン島に進出した。

 91年に最初の本格的な木工工場を稼動させ、アポストリー・ソファー、大理石加工を行う3工場に分けている。原料の大理石はイタリアとスペイン、木材はカナダなど北米、ニュージーランドから、また皮革はドイツとイタリア、布の生地は米国とイタリア。またオーストラリアの合板に日本から輸入したペンキを使って「ピアノ」塗装も行っている。籐(とう)は香港経由で調達し、松材はニュージーランドから、またアフリカからはマホガニーを輸入している。

 小平進代表はこのセブ工場を、「世界で唯一、ユニークな家具工場」であり続けたいと考えている。セブ工場で使う素材は欧米の高級輸入材を使い、日本、ドイツ、イタリアの最新鋭の機械を導入している。このセブ工場で二〇〇一年に開発した新製品も日本で相次ぎヒットしている。障害者や老人向けのに、電動で立ち上がれる機能を持たせた「複合マッサージ椅子」を開発し、2000年から発売した。体を動かすのも難しいような高齢者が椅子の後部が電動で持ち上がるように設計されている。電動部分についてはイタリアからセブ島に輸入している。「自分が他人からしてもらいたいと嬉しいことをしてあげよう」という小平代表の方針で開発された。

 このセブ工場で、2000年以降、相次ぎ新製品が開発されてヒットしている。また3年前から欧州のオートリブ社向け三菱のデボネア向けなどに自動車のハンドルの木製シフトノブも生産しているが、小平代表はこれをあまり宣伝したがらない。小平代表自らがデザインした3本の長い柱を組み合わせたフロアランプも2000年から新発売した。この他、家具調のユニークな仏壇なども現在、開発中。

 セブ工場内にある同社のセブ事務所は、建物の入り口、社長室、会議室などに葬儀場のような雰囲気がある。別の言葉で表現すれば、ユニークな落ち着いた高級デザインで作られている。

このような同社の役員会議室はほとんど使われていないため、同社が進出しているマクタン輸出加工区(工業団地)の事務局の会議の場所などとして貸し出している。

 このセブ工場の唯一の常駐日本人が副社長を務める加藤靖氏(かとう・やすし)さんは、セブ工場の完成当初から工場の経営を任されている。加藤さんは関東学院大学で経済を専攻したが、在学途中でデザイン、設計などに関心を高めた。だが我慢して経済学部を卒業、そして当時は東京にあったモビリア経営のモビリア・インテリア・カレッジに学んだことがその経営母体である同社に入社、セブ工場に赴任した。

 
「高品質はモラル向上」をテーマに
 
 セブ島に進出する1年前の87年、小平代表はフィリピン工場を建設するため、マニラで4、5社ほど家具工場を見学した。だが、「当時は今より労働運動が盛んで、訪問した2社でスト決行中でした。しかし労働者はロックアウトされた工場でギターを弾いていました。こんな状態では工場なんか作れないから、フィリピンでマニラに次ぐ都市を尋ねたところ、セブだといわれました。そこで、セブ島に向かったのですが、セブでもストが行われていました。しかしセブにはリゾートもあり、英語は通じて良いところだと感じました」と進出当時を振り返っている。

 モビリアのセブ工場は、1990年9月からマクタン輸出加工区(MEPZ)で管理棟に事務所を間借りしてスタートした。創業当初では、フィリピン人10人程度の縫製の技術指導を行うことから始めた。今では日系の電子部品メーカーなどで満杯になったマクタン輸出加工区だが、モビリアが進出した当時では、まだ空き地がほとんどだった。91年2月に自社工場が完成、その後このモビリアのフィリピン工場であるモビリア・プロダクツ・インク社(MPI)は500人の従業員を抱える同社の主力工場に育てあげた。

 同輸出加工区には米国の大手家具メーカーであるメートランド・スミスも進出しているが、木材や金属を使ったミドルックラス向けのクラシック調家具なので競争はない。かつてソニーの大賀社長(当時)に家具を販売した小平代表は、納入してから大賀さんに「もっと品質を向上させる必要がある」とそれとなく忠告されたことがある。このことで奮発した小平代表は、「高品質はモラル向上から」を製品作りのテーマにしてきた。セブ島の工場を任されている加藤副社長も、「フィリピン人は、アメリカナイズされた教育を受けており、仕事に責任を持たすとキチンとこなす」と評価している。事務所で筆者を見た従業員全員が立ち上がって挨拶してくれた。従業員は約400人で内200人が正社員。かつて300人の正社員がいたが200人にしてきた。労働組合はなく、「もし組合が結成されたら撤退する」方針だ。

フィリピンと中国の架け橋
 
      
アロハホテルのオーナーで同ホテル内の事務所で今日も仕事する蔡金鐘さん
 
 タイのバンコクやフィリピンのマニラでも宮殿の近くに中華街があるのは、かつて、ここに中国からの移民を集めておけば、監視しやすいという面があったのだろう。
マニラの中華街に、TULYファンデーション社「TULY FOUNDATION INC」という会社がある。華人向け基金として営利目的ではないこの会社の創業社長を務めているのが、蔡金鐘(Mr. Manuel O. Chua)氏である。眼光するどくお元気な蔡さんは、「七〇代になってからは、これまでお世話になった恩返しと思って慈善事業にさらに力が入るようになりました」とうまい英語で語る。

 蔡金鐘氏は一九二九年九月に中国・福建省生まれ。一九三七年に母とフィリピンに渡り現在に至っている。祖父がフィリピンのミンダナオ島のサンボアンガに住んでいたなど、蔡家とフィリピンの関係は長い。

 蔡金鐘さんは日本とビジネスをしていたこともある。一九五三年から六五年までは日本の大阪に、日本人を使った事務所を開設、伊藤忠商事、第一物産などと提携して日本の衣料原料をフィリピンに輸入していた。

 蔡金鐘さんはフィリピン名「マニュエル・チュア」としてマニラの華人社会で有名で、中国で「貨人世界」(中国言実出版社)で紹介されている。蔡金鐘さんはフィリピン航空やフィリピン・ナショナル・バンクのオーナーであるルシオ・タンなどのように、フィリピンの大ビジネスで成功した華人とは言えないが、行っている事業のほとんどが中国とフィリピンに架ける橋の役を務めることを目的としている。事実、社名の「TULY」はタガログ語で「橋」を意味している。

 タイでは華僑、華人も仏教徒がほとんどだが、アジア有数のカトリック国であるフィリピンでは架橋、華人のほとんどがキリスト教である中で、蔡ファミリーすべてが仏教徒なのは珍しい。

 
   
アロヨ大統領、董建華香港行政長官や江沢民主席に挨拶する蔡さん
 
 TULYファンデーション社の活動として、マニラの中華街の数ヶ所では仏教クリニックの「BONLIAN」という医療活動を尼僧に任せている。恵まれない中国系フィリピン人向けの医療活動が中心で、薬を買えない人には西洋医薬も無償で提供するなどの活動をしている。「BON」は仏教用語の梵で、「亡き母が熱心な仏教徒でした」と蔡さんは言う。
蔡金鐘さんは在マニラの中国大使館とも大きなパイプをもっている。というのも、領海侵犯などで長期拘留されている中国人漁民などのサポートや中国送還の費用を蔡金鐘さんが負担することも多いからである。最近でも、領土問題で各国が争っている南沙諸島でフィリピン当局に逮捕された福建省福州や香港などからの漁民に食料を提供、母国への帰国の世話などを行っている。二〇〇〇年九月には台風に遭遇して船が遭難、フィリピンにたどり着いたベトナム、日本、マレーシアなどの船員の帰国にも活躍した。

 「南沙諸島への関心を深めたい」と考えた蔡金鐘さんは、出版事業の応援もした。これは、中国フーナン省生まれで、台湾やフィリピンの大学(アジア最古の聖トーマス大学)で教授をしているロバート・シーチン・シャオ教授の「南沙問題(THE NANSHAS DISPUTES)」というマニラで発行された英文書籍。「この本の発行、資料提供などで友人のマニュエル・チュア氏からは、大きな援助を受けた」とシャオ教授は序文の最初で語っている。

 また、「わが南京プラトーンー召集兵の体験した南京大虐殺」(青木書店)の著者である東(あずま)史郎氏をフィリピンに招いて「フィリピンの華人などに真実を語ってもらった」(同)活動もした。

 
フィリピンで行き詰った日本人の帰国も援助
 
 フィリピンで行き詰った日本人、アフリカ・ガーナ、英国人などが母国に帰国させる援助も蔡金鐘さんは続けている。「海外旅行航空券の販売会社もありますので、かなり安く帰国のための片道航空券を買って差し上げています」と領収書の束を見せてくれたが、日本人では「シゲマツ」などの名があった。

 会計士だった亡き父とは異なって、新規事業を立ち上げてきた蔡金鐘さんだが、マニラ湾の夕陽が一望できるロハス大通りに面したアロハホテルの初代経営者、オーナーでもある。「ホテルを持っているといろいろな人に会えますからね」とホテル業に進出した狙いを教えてくれた。一九六四年に起業したアロハホテルは、テニスコートだった土地を買ってホテルにしたもので、一階にある直営レストランの「四川楼」では本格的な四川料理が味わえる。

 ホテルの経営は息子の蔡忠義(ドリアン・チュア、四七歳)に任せており、一九九四年には親子で福建省を訪問した。蔡金鐘さんはマニラを代表するビジネスセンターであるマカティ市に住んでいるが、アロハホテル内にある同氏の事務所に毎日のように出勤する。そして「週四、五回はプールで泳ぐ」ことで健康を保っている。

 「孫もすでに大学を卒業、このホテルやコンピュータの会社などで働くようになりました。私の慈善活動の趣旨を理解して続けてほしい」と期待している。

フィリピンの日系人
 
 日本の中小工場だけではなく、農業や漁業関連の職場では、外国人不法就労者の労働力に頼っているところが多いが、これらの経営者は、いつ手入れを受けてこれら労働者が連行され、生産活動が突然停止してしまうことを恐れ、日系人を合法的に採用したいという要望が日本の中小企業にある。

  1999年2月、千葉県銚子市にフィリピン残留日本人を対象として国籍の確認作業、日本への定住を進め、日本企業への就職の世話などを行う「フィリピン日系人会支援の会」が結成された。半年足らず前に始まったばかりのこの事業では、すでに600人もの日系人を千葉県銚子市と周辺の茨城県などの食品関連企業に就職させている。さらに東京や北海道にも支部を作らせて欲しいという要望も、この銚子市の「フィリピン日系人会支援の会」に来ており、近く設立される予定である。

 銚子市は日本1の水揚げ量を誇る漁港である。しかし98年12月に同市での中国人研修生の手当てを大幅にピンハネした問題が全国に報道されて問題になった。同市周辺には漁業関連だけではなく、キノコなど農産物の缶詰や魚の飼料を作る工場が多く、銚子市には、水産業界で働く中国人が800人はいたが、ピンハネ問題以来、その数は数分の1に減少して、労働者不足が深刻した。そこで「フィリピン日系人会支援の会」を結成、日系フィリピン人の受け入れを開始した。

 フィリピンのミンダナオ島で会った、これら雇用者(千葉県や茨城県の企業家)は「日本人のパートのおばさんでは夕方になると帰宅してしまうが、超過勤務でも喜んで働いてくれる。なによりもフィリピンの明るさを持ち合わせているので職場環境もよくなる」と期待していた。茨城県で玉ねぎ加工を行っているという社長は、「13人を至急に欲しい」として、ミンダナオ島のホテルの暑い会場で、背広にネクタイ姿で、熱心に日系フィリピン人多数と面接されていた。

 この銚子市での事業がスムースに進んだ背景に、代理申請が認められたことが大きい。銚子市の「フィリピン日系人会支援の会」で日系フィリピン人の代理申請を行っている秋元賢二氏とミンダナオ島で会った。秋元さんは銚子市役所の職員として観光等を担当してから市議会議員(現職)となったが、行政書士である。秋元さんはかつて外人登録係りで市民課にいたこともある。99年3月に日本の入国管理局から申請取次者の認定を受け、日系フィリピン人の代理申請を始めた。

 
終戦が無く逝ってしまった萩尾さん
 
   
日系フィリピン人に囲まれて戸籍資料を調べる萩尾さん(1999年末、筆者撮影、ダバオで)
 
 ミンダナオ島のダバオには1904年以降、1回に100人単位での日本からの移民が増え、第2次大戦時では2万人を超える日本人が住んでいた。未開地を開拓し、主にロープ等につかうマニラ麻(アバカ)の栽培をした。

 萩尾行利(はぎお・ゆきとし)さんは日本人の萩尾三平氏とフィリピン人のホセパ・セネンテを母として昭和元年(1926年)ダバオ州のデゴスというところで生まれた日系2世の1人だが、父親の国が日本であるというだけでその後の悲惨な人生を歩んできた。
73歳で亡くなるまでの萩尾さんはダバオにある日系人会の建物内に一人で居候されていた。

 生前の萩尾さんによると、「酒好きの父はいつも腰に酒をぶらさげてそれを飲みながら必死に仕事をしていた。この無理がたたって49歳でこの世を去ってしまいました。「ですから私は、酒は飲みません。日本の味が忘れられなかった父は、醤油や味噌も自ら作っていました」という。

 萩尾さんは日本軍が組織した自警団に加わり、日本軍に反発するフィリピン人を捕まえる先兵だった。そして、萩尾さんが捕えてきたフィリピン人は日本軍が殺した。

 1945年に米軍がダバオに上陸したが、日本の敗戦の後も含めて1万人の日本人が死んだと萩尾さんはいう。日本軍の司令で手投弾の信管を処理していたが、爆発、萩尾さんは数本の指を失った。萩尾さんの弟2人はフィリピン人ゲリラに殺され、母親もそのショックでこの世を去ったという悲劇の家族である。

 萩尾さんは米軍のキャンプに収容されたが、しばらくして脱出した。そして、ダバオのすぐ沖にあり、今では2つの大型リゾートがあることでも知られるサマール島で目立たないように20年間を過ごしてきた。アポ山の近くにある実家の付近には、「恨みをもっている人からの仕返しで殺されるかも知れませんので行きたくても行けません」と言っていた。 萩尾さんは第2次大戦を終えないまま亡くなった。

 「私に恨みをいだき続けるフィリピン人がこの世を去って、やっと私は終戦を迎えることができるのです」と萩尾さんは生前に私に語ってくれた。
ダバオで名乗りをあげた日系フィリピン人は2,300人。萩尾さんは1982年5月に初めて訪日、その後も日系フィリピン人の通訳などで13回ほど来日している。99年からは日系フィリピン人の親子がそろって日本に行くことが可能になったこともあり、日本に行く日系フィリピン人が増えていることに伴うもの。

 
「フィリピン日系人会支援の会」
 
FJDSA(Filipino-Japanese Descendants Support Association)

FJDSAは特定非営利活動法人=NPO(Non Profitable Organization)資格を2000年に取得した。

フィリピン日系人互助財団を支援するFJDSA(Filipino-Japanese Descendants Support Association) 「フィリピン日系人会支援の会」のホームページは、 http://www.pns.gr.jp/ で活動が紹介されている。また「フィリピン日系人会支援の会」への e-mailは、 info@pns.gr.jp

入会金5万円で、毎月1万円の会費と一人あたり月3,000円の賛助金がいるが、これは事務所の経費(ほとんどが人件費)と日系人の支援費用など。「中国研修生で起こしたような問題を出さないためにまったく透明な決算書を公開しています。職員は各種のお世話で寝る間もないほどにやっています。ビジネスとしては成り立たないボランティア活動が中心です」と宮内理事長。

「フィリピン日系人会支援の会」住所

〒288-0048千葉県銚子市双葉6-5-202

連絡先は宮内章光(みやうち・あきみつ)理事長

TEL:0479-25-6662 FAX:0479-25-9156

jollibee
 
世界にも進出するJOLIBEE
 純フィリピン企業でハンバーガーチェーンのジョリビー(JOLLIBEE)では
日本の牛丼チェーンのアジアでのヒットから学んで、フィリピン式牛丼を発売した。

 名づけて「ハニー・ビーフ・ライス」で59ペソ(1ペソ約2.5円)にはスプライトなどのビッグサイズの飲料付である。日本人の舌にはちょっと甘い感は否めないが、まあうまい。日本のような玉ねぎが入っていないのは残念だ。

 同JOLLIBEEのチェーンを経営しているのは、ジョリビー・フード・コーポレーションでフィリピンではマクドナルドを上回る業績をあげている優良企業。フィリピンだけではなくフィリピン人の海外出稼ぎ(OFW)が多い、香港や米国西海岸でもチェーンを展開している。

パラワン島
 
 プエルト・プリンセサから車で二時間ほど、サバン(Sabang)という小さな波止場でバンカーボートに乗り換えて世界で最も長いという地底川がある。地底川の入り口はいったんバンカーボートを降りて原始林の中を五分ほど歩いたところの入り江が入り口である。モニター・リザード(MONITOR LIZARD)と呼ばれる動物が近寄ってくる。このフィリピン最大のLIZARDは1メートルあり、尾で人間をたたく。時には海を泳ぎ、木にもよじ登るという怪獣である。

 「動物に餌を与えないでください」と注意を喚起する看板が立っている。だが観光客が残した食事、果物などの生ゴミを食べてこの公園をクリーンにしてくれるのもこの怪獣

 パラワン(PALAWAN)島はフィリピンの西南の一七〇〇からなる群島でメインのパラワン島は北部にエルニドに近い島々は世界的なダイバーのメッカ。
 パラワン島全体で七〇万人の内でプエルト・プリンセサ市には一〇万弱が住む。
六五%が農業と漁業に従事しており、コメはマニラ市場にも出している。マンゴーは日本市場にも輸出している。
 市内から数キロのところに一ヶ所だけ小さなゴルフ場があるが、知事は「ゴルフ場への投資は要らない」と断言する。アジア各国ではそのリーダー達が豪華なゴルフ場がいっぱいあると自慢されることに慣れているので同知事の説明は異色である。そこで、九八年実施のJICAの調査でもパラワンはエコツーリズム(環境観光)を進めるべきという結論に満足している。
 フィリピンの西南に位置するパラワン(PALAWAN)島北部のエルニドは、世界のダイバーにとって憧れの地である。パラワン全島に約七〇万人が住み、中央部にある州都プエルト・プリンセサ市の人口は約十五万。プエルト・プリンセサ市も美しい海に囲まれており、六五%の人が農業と漁業に従事している。生産したコメや魚の多くがマニラ市場に国内輸出され、マンゴーは日本市場にも輸出している。「パラワン島はフィリピンで最も清潔で緑が多い島」として、これまでに何度も大統領表彰を受けてもいる。
最北に近いエルニドは世界のダイバー達のあこがれの場所だが三百キロ程離れており自動車で舗装されていない道を行く人は少ない
 プエルト・プリンセサ(PUERTO PRINCESA)市はスルー海、ミンダナオ島に面している」クロコダイルファームがあり、五、六メートルもの大きなワニが数千匹いる。タイのサムットプラカンのクロコダイルファームに習ったもので、フィリピンのワニの減少を食い止める目的で設立されたクロコダイル・ファーム・インスティチュート(CFI)がこのファームの母体。にフィリピン政府の環境・自然資源(DENR)と日本政府・JICA(国際協力事業団)の共同事業として一九八七年八月にスタートした。

 
塀がない世界で唯一の刑務所を訪問
 
 市の中心部から四、五〇分走ったところにイワヒグ(Iwahig)刑務所がある。
 畑の中に広大な敷地が広がりコメや野菜を栽培している。テニスやバスケットボールなどもある収容されている囚人が作った手工芸品が売られる売店もある。家族とこの刑務所内に住む囚人もいる。
 
パワワン島の地底川
 
 プエルト・プリンセサから車で二時間ほど、サバン(Sabang)という小さな波止場でバンカーボートに乗り換えて世界で最も長いという地底川がある。地底川の入り口はいったんバンカーボートを降りて原始林の中を五分ほど歩いたところの入り江が入り口である。モニター・リザード(MONITOR LIZARD)と呼ばれる動物が近寄ってくる。このフィリピン最大のLIZARDは1メートルあり、尾で人間をたたく。時には海を泳ぎ、木にもよじ登るという怪獣である。「動物に餌を与えないでください」と注意を喚起する看板が立っている。だが観光客が残した食事、果物などの生ゴミを食べてこの公園をクリーンにしてくれるのもこの怪獣である。  

日本人は数えるほど。斉藤賢一さんは年に百人くらいくる日本人ダイバーをあいてにプエルトプリンセサの「バンカオ・バンカオ」でショップを開いている http:/www.pto-princesa.com/Ifdrive/

 
韓国人ビジネスマンはプエルト・プリンセサにかなりいる

フィリピンのパラワン島に行く度に会う韓国料理店経営の金さん夫妻ほどの「おしどり」はいない
 写真を見ていただければ、すべてお分かりになるだろう。プエルト・プリンセサでレストランを経営する韓国人の金相基さん(MR  SANG GI KIM、携帯電話0918−8819286)と全錫彩(MRS JEON SUK CHON)夫婦はオシドリ夫婦で、感じがよい。以前、プエルト・プリンセサの温泉で知り合って以来、親しくしていただいている。私がプエルト・プリンセサの友人を招いて夕食するときには必ず金さんのこのレストランを使うが金さんは個室を用意してくれるなど、サービスもしてくれる。年齢も夫婦同じ四十八歳、すでにマニラの大学に通う息子がいる。

 プエルト・プリンセサ市の中心部、リサール・アベニューとデカナイ道路のコーナーにある韓国料理と日本料理のかなり目立つ大型レストランが「パラワン・ガーデン・レストラン」である。

 マニラのマカティで韓国料理店をやっていたのだが、九九年末にマニラからこのパラワンに移ってきた。韓国ではソウルに本社があるユーウォンという会社のエンジニアとして釜山などで働いていたが、後に独立して中小企業を立ち上げた。かなり儲かるプロジェクトもこなしたが、ある仕事では大きな損を出して、転業したい気持ちになった。ちょうどその頃、放送局であるNBCで働いている友人の紹介でフィリピンではビジネスチャンスが大きいと聞いてその気になった。マニラに来て前の仕事の続きもしたがどうもうまくいかない。そこでマニラのマカティ市で韓国レストランを経営し始めた。マニラ以外に移る気持ちになり、九六年からイロイロ、セブ、ボラカイ、カガヤンデオロ、バタンガス、プエルトガレラなどを調査したが、結局、このプエルト・プリンセサを選んだ。

 「フィリピンの商売は生半可では絶対に成功しません。このプエルト・プリンセサには九七年二月に三日だけ来たのが最初でしたが、投資を決めるまでに五十回から七十回は来て、ソクラテス知事(二〇〇〇年に航空機事故で死去)や警察トップなどとも友好を深めてから投資しました」
 プエルト・プリンセサに来た当初、奥さんの金相基さんは、高級ショッピングセンター街でもあるマニラのマカティでの買物ができなくなったことが当初は大きな不満だったが、次第にここの生活も慣れてきた。「年一回はマカティに行きます。マニラの友達も時々来てくれるので」
 日本人ではサーファー向けの店を経営する若者など数えるほどしかいないが、建設関係などの短期駐在者も含めてかなり多くの韓国人ビジネスマンがプエルト・プリンセサ市に住んでいる。
 プエルト・プリンセサ市内で海岸付近に(Circumferential Road, Jacana, Barangay Bancao-Bancao)にSMRCリクレーション・パークも開設した。すでに射撃場だけは開業しており、人気を呼んでいる。ピストルのレンタル代金は百八十ペソ。口径九ミリ(45,38)のピストルと弾丸20発、ターゲットペーパー(射撃用紙)と目と「耳のプロテクターを含んで三百三十ペソ(約800円)のパッケージを用意している。追加弾丸は一発七・二ペソ。「ヤミの射撃場は多いが正規に警察から免許を受けているのはここだけ」と経営者のジェイムさんはいう。

   
私の弾はすべて的の中心にあたり、「プロか」と驚かれいい気もち
 
 中心部から四、五〇分走ったところにイワヒグ(Iwahig)刑務所がある。畑の中に広大な敷地が広がりコメや野菜を栽培している。テニスやバスケットボールなどもある。収容されている囚人が作った手工芸品が売られる売店もあり、家族と刑務所内に「住んでいる」。
 

このワニにビデオカメラのケースを取られてしまった

パラワンの海
ボラカイ島の世界最小放送局を訪問
 
        
ボホール島で世界最小のおサルさんを握る私の手
 
   
 
 フィリピン中央部のセブ島のセブ港から高速船が数時間で結んでいる島の一つがボホール。マニラからの航空便もあるが、輸送の主力は船である。セブ島では開発が進んでフィリピン有数のリッチな島となったが、ボホール島は世界銀行が指定するフィリピンで最も経済開発が遅れた貧困島で、七一〇〇からなるフィリピンの島々の中で一〇番目の大きさがある。セブ港から高速船で約二時間でボホール島の州都であるタグビララン(Tagbilaran)市のタグビララン港に着く。レネ・ロペス・レランパゴス知事によると、ボホール島の人口は約百万人。識字率は九三%だが、七%が失業しているという。経済開発が進まなかったのはインフラ不足であり、九九年に初めて道路信号がついたばかりだという。
 「新たな風を吹かせて欲しいと選ばれた」レネ・ロペス・レランパゴス知事(写真右下)は、32歳で知事に就任した。1,500メートルの滑走路しかないが、タグビラランとコーズウエィでつながっているパングラオ(Panglao)島に三千メートルの滑走路を持つ新空港を建設する計画を進めている。ボホール州政府機関であるボホール投資促進センターは知事室に事務所を構えて外国からの投資家の応援をしている。

 同知事は「所得水準を上げるため、セブ島のように国内外の企業誘致が欠かせない。この島で初の工業団地をセブ島の対岸に開発したい」と計画を練っている。け電力の安定確保が欠かせない。そこでフィリピンの国家電力公社(NPC)は、レイテ島と送電線でつなぐ計画を進めており、国際協力銀行(JBIC)が資金協力している。ボホール島出身で投資委員会(BOI)セブセンターのピンタック所長は、ボホール島全体の電力消費はセブのSM(シューマート)ショッピングセンターで使われている電力にあたる」という少なさである。

 
ボホールの知事は
平方キロあたり270人が住むがフィリピンでボホールはフィリピンで2番目に人口密度が高いという
 
 ボホール島は農耕に適する土壌があるとされるが、灌漑設備の未整備から作物の収穫高が悪い。そこで農民は貧窮から抜け出せないでいる。そこで国家灌漑公社(NIA)では日本の国際協力銀行(JBIC)から六十億七千八百万円の借款について九九年十二月二十八日に調印(ボホール第二期灌漑事業)、ボホール島東北部で灌漑施設を建設している。第一期で建設されたマリナオ・ダムの下流にバヨンガン・ダムを建設、灌漑施設を作って同地域の農業生産基盤の強化を図り、農民の生計向上と雇用創出を図るもの。「単に施設を作るだけではなく、水利組合の組織化やコンサルティングで経営改善も実施する」(JBIC)としている。

 マグロ、ウナギ、ウニ、海草、カニといった海産物に恵まるボホールだが、なかでもマンゴーとウベ芋はフィリピンナンバーワンの定評がある。レネ・ロペス・レランパゴス知事は「農産物加工を誘致してアグリビジネスを盛り上げたい。しかしゴルフ場は1カ所だけなら歓迎します」という。

 「新たな風を吹かせて欲しいと選ばれた」レネ・ロペス・レランパゴス知事は32歳の若さでこのポストに就任、現在38歳。1,500メートルの滑走路しかないが、タグビラランとコーズウエィでつながっているパングラオ(Panglao)島に三千メートルの滑走路を持つ新空港を建設する計画を進めている。ボホール州政府機関であるボホール投資促進センターは知事室に事務所を構えて外国からの投資家の応援をしている

 同知事は「所得水準を上げるため、セブ島のように国内外の企業誘致が欠かせない。この島で初の工業団地をセブ島の対岸に開発したい」と計画を練っている。け電力の安定確保が欠かせない。そこでフィリピンの国家電力公社(NPC)は、レイテ島と送電線でつなぐ計画を進めており、国際協力銀行(JBIC)が資金協力している。ボホール島出身で投資委員会(BOI)セブセンターのピンタック所長

 ボホール島は農耕に適する土壌があるとされるが、灌漑設備の未整備から作物の収穫高が悪い。そこで農民は貧窮から抜け出せないでいる。そこで国家灌漑公社(NIA)では日本の国際協力銀行(JBIC)から六十億七千八百万円の借款について九九年十二月二十八日に調印(ボホール第二期灌漑事業)、ボホール島東北部で灌漑施設を建設している。第一期で建設されたマリナオ・ダムの下流にバヨンガン・ダムを建設、灌漑施設を作って同地域の農業生産基盤の強化を図り、農民の生計向上と雇用創出を図るもの。「単に施設を作るだけではなく、水利組合の組織化やコンサルティングで経営改善も実施する」(JBIC)としている。
 マグロ、ウナギ、ウニ、海草、カニといった海産物に恵まるボホールだが、なかでもマンゴーとウベ芋はフィリピンナンバーワンの定評がある。レネ・ロペス・レランパゴス知事は「農産物加工を誘致してアグリビジネスを盛り上げたい。しかしゴルフ場は1カ所だけなら歓迎します」と。セブ港から高速船に乗って、ボホール島とは反対である西方向に二時間二〇分行くと砂糖産業が中心のネグロス島がある。東ネグロス州の州都であるドゥマゲティ(Dumaguete)市のフェリペ・アントニオ・B・レモロ市長は、「ボホール島のロペス・レランパゴス知事とはマニラで弁護士時代から友人で連絡を取り合って島の開発にかけています。欧米企業がインフラ整備などで動き出しているのに日本からはの動きがない」と残念がる。ジョージ・P・アーナイツ知事は、「南ネグロスには地熱資源があり、四三六メガワットの潜在発電力があるが、これまでに一一二・五メガワットしか開発されていない」という。そこで、国際協力銀行(JBIC)から資金を導入して、セブなどと海底ケーブルで結び電力需要増に対応する国家電力公社(NPC)とフィリピン石油公団が進めるパリンピノン地熱発電所建設第二期計画に期待している。

マニラで拳銃人気
 
      
マカティシネマガーデン地下で
ネグロス島
 
セブ島とネグロス島間で見たイルカの大群
 セブ港から高速船に乗って、ボホール島とは反対である西方向に二時間二〇分行くと砂糖産業が中心のネグロス島がある。東ネグロス州の州都であるドゥマゲティ(Dumaguete)市のフェリペ・アントニオ・B・レモロ市長は、「ボホール島のロペス・レランパゴス知事とはマニラで弁護士時代から友人で連絡を取り合って島の開発にかけています。欧米企業がインフラ整備などで動き出しているのに日本からはの動きがない」と残念がる。ジョージ・P・アーナイツ知事は、「南ネグロスには地熱資源があり、四三六メガワットの潜在発電力があるが、これまでに一一二・五メガワットしか開発されていない」という。そこで、国際協力銀行(JBIC)から資金を導入して、セブなどと海底ケーブルで結び電力需要増に対応する国家電力公社(NPC)とフィリピン石油公団が進めるパリンピノン地熱発電所建設第二期計画に期待している。

 ネグロス島はネグロス・オキシデンタル(西ネグロス)とネグロス・オリエンタル(東ネグロス)という二つの州に分かれている。西ネグロスには二百六十万人、東ネグロスでは百五十万人が住む。西ネグロスの首都であるバコロド(BACOLOD)市はマニラから航空機で四五分、セブ島から二五分程度。バコロドが最大の都市で四三万人。ネグロスは砂糖の産地として知られ、フィリピン全体の砂糖生産の六割、百四十万トンを生産しているが、その内、東ネグロスで八〇万トンが生産されている。精糖工場は西ネグロスに十カ所、東ネグロスに四カ所がある。砂糖はバコロド港からフィリピン全土に出荷されている。フィリピンは砂糖の輸出も行っているが、米国の特恵関税をあてにしたもので、足りなくなる砂糖は輸入に頼るというゆがんだ実業にある。他には大きな産業はないが山間部などにリゾートがある。また、バコロド市に隣接するマーシャ(MURCIA)には熱い温泉が沸いているが利用されていない国有地もある。バコロド商工会議所のホセ・マ・ザイコ氏(MR JOSE MA. ZAYCO)は、「日本人は温泉が好きでしょう。投資しませんか」という。

国をあげて退職者を誘致
 
フィリピンで余暇を楽しむ77才のお嬢さんと
2003年3月マニラ近郊で
 フィリピンでは、故・マルコス時代の一九八五年七月から外国の退職者受け入れを進めてきた。 フィリピンの銀行に五万米ドルを預金する五〇歳以上の外国人年金生活者にSRRV(退職者特別居住ビザ)を出しており、三十五歳以上なら七万五千ドルの預金でビザが取得できる。一定期間の後にこの預金を下ろしてフィリピンでのマンション購入などに使うこともできる。金利が付き、フィリピンペソで引き出せ、帰国時などの場合には全額が返却される。パコ局長によると、PRAには約七千人が登録しており、二十歳以下の子どももこの数字に含まれている。
退職者本人だけではなくその配偶者、子ども一人が追加預金無しでこのプログラムに参加できるためであり、二〇〇二年十二月末現在で、世界六十七カ国から約九千七十四人が登録している。
 
PLRA(余暇・退職庁)では体験ロングステイ制度をスタート
 二〇〇二年、それまでフィリピン政府機関だったPRA(退職庁)がフィリピン貿易産業省(DTI)投資局(BOI)傘下に組織変更し名称もPLRA(余暇・退職庁)として再スタートした。これは世界の退職者をフィリピンに資金と雇用機会をもたらす大切な投資者としてさらに国を挙げて誘致していこうというもの。
 PLRAの初代長官に元バタンガス州知事だったアントニオ・レビステ(ANTONIO LEVISTE)が二〇〇二年四月に就任、同八月にアロヨ大統領令で正規にスタートした。同長官の奥さんであるローレン・レガルタ(LOREN LEGARDA)さんは現在フィリピンの上院議員でオシドリ政治家夫婦。PLRAはマニラ一のビジネス街として知られるマカティ市のシティ・バンク・タワー二九階に事務所を構えている。
 PLRA副支配人であるホセ・マルセロ(JOSE T. MARCELO)氏によると、このほど、二百米ドルと八千五百ペソの手数料を支払うと一年間のフィリピン滞在ができる制度を新設した。この更新はできないが、最初の一年の間にもっと長くフィリピンに住むことができるかどうかを判断してもらおうというもの。このビザを世界各国のフィリピン大使館でも発行する準備をしている。

 一九八七年から二〇〇二年十二月末までのPRA/PLRAがまとめたところでは、これまでに約一万人が登録しているが、最も多いのは台湾人の二千九百十一人でついで中国人の一千九百八十七人。日本人は第三位で八百六十人の内で二百二十二人が奥さん。ついで香港、インド、韓国の順になっている。英国、米国などは二百人ほどだが夫が米国人でフィリピン人夫人というケースが多い。

フィリピン人になった名倉さんの物語
 
 PRA(PLRAの前身のフィリピン退職者庁)局長のパコ女史に、フィリピンで最も老後を楽しんでいる日本人退職者を紹介して欲しいと頼んで紹介されたのが「ナグラ」氏という日本人男性がパコ前局長の出身地であるミンドロ島にいると聞いたのでさっそく出かけた。

 ミンドロ島はルソン島に隣接している。まずマニラから南方へバスで1時間半ほど走り、バタンガスでフェリーに乗り換えさらに1時間半ほどでミンドロ島のプエルト・ガレラという小さな港町に着く。フェリーが島に接近しても家すら見えない寂しい所で、こんなところにナグラさんという日本人が住んでいるのかと心配になった。

 プエルト・ガレラに着いて、道路脇にある小さなお店で、「ミスター・ナグラ、ナグラ」と尋ねると、その店で働いていた少女が「私はナグラのトモダチだから案内する」という。その女の子の後について、波打ち際まで生える木々の枝をかき分け5分ほど歩くと、ローマ字で「ナグラ・ビーチ・リゾート」という看板が目に入った。

 女の子にお礼を言って、このリゾートに砂浜側から入っていくとちょうど、日本人らしき男性がリゾートの母屋らしき建物から出てきた。この人が名倉英次郎氏で、1929年3月16日生まれ。威勢良く、前記の小松崎さん同様に70代の年はまったく感じさせない。

 「PRAのパコ局長の紹介で来られたのですか。へえー。パコさんは私のことを覚えていてくれたのですか。私はPRAビザを持っている何千人の一人に過ぎないのに…。私が退職者特別居住ビザを申請したのは60歳頃でまだこの資格を得た人は少なかったです。パコさんが私のことを覚えていて下さるなんて感激です。私は自分で自分をすごい奴だと思っているのですが、ビザ取得のときに二度お会いしたパコさんの前では、私は直立不動でした。彼女は頭が切れ、何もかも見透かされているという感じでした。フィリピンにはあんなすごい女性がいっぱいいるのです」

 名倉さんの実家は、かつて浜松市三方原で茶の製造販売を営んでいた。地元の興誠中学から予科練生となって、神奈川県の真鶴岬で砲台を作っている時、名倉さんは終戦を迎えた。

 米軍が進駐し、真鶴半島の砲台を見に来るというので、他の同期生達は米兵を迎えるという指示通り出かけていったが、「ちょっと前まで敵だった米兵の歓迎なんかできるか」と、名倉さんは参加しなかった。

 父親が裕福だったので、「勉強ができない私をカネの力で立教大学に進ませてくれた」が、大学入学直後の昭和27年に家が没落した。北海道と東北市場向けに茶の販売で儲けていたが、輸出に手を出して失敗した。そこで食えなくなった名倉さんは、職を変えながら食いつないだ。とくに日本各地でのダム建設現場を渡り歩き、最後の現場は黒部ダムだった。この仕事を終えて東京に出た名倉さんは、ハイヤー運転手していたが、ひょんなきっかけから後に大臣にもなる代議士の秘書になった。名倉さんはその代議士の名前だけは明かしてくれないが、尊敬していたこの代議士の2世議員とは大喧嘩して秘書を辞め、70年代後半から東京で個人タクシーを営業した。

 この頃から名倉さんのフィリピン通いが始まった。

 「飲む・打つ・買う≠ナ、やらないのは酒だけです。まったく酒は飲めません。お恥ずかしいことですが、個人タクシーをやっていた頃の私の趣味は、海外の女性と遊ぶことでした。台湾、韓国、タイなどアジアだけでなく、欧米やアフリカへも行きました。だけどフィリピンには行く気がしませんでした。フィリピンではいい思いはできないと感じていたのです。でもある日、突然、フィリピン行きが決まりました。申し込んでいた北欧旅行の参加者が集まらずにキャンセルになったことがあったのですが、その旅行社がお詫びだとフィリピン・ツアーに無料で招待してくれたのです」

 こうして名倉さんにとって初めてのフィリピン体験はルソン島北西にあるハンドレッドアイランドというビーチだった。その海で生まれて初めてシュノーケルをつけて潜った名倉さんは、その瞬間、目の前に広がる珊瑚礁に魅せられた。

 「理屈じゃないです。こんなきれいなものがこの世にあるのかって。それは大きな感動でしたよ。そのフィリピン行き以来、私のパスポートに押される出入国のハンコは、フィリピンばかり。そして私はフィリピンのあちこちの海に通って珊瑚礁を鑑賞しました。当時のフィリピンの治安は決して良くなかったので、有り金すべてをコンドームに入れ、それを海水パンツの中にしのばせて潜りました。普通の風船も試しましたが、空気を抜いたつもりでも5メートルも潜ると風船は破裂しました。コンドームは強いものですなあ」

 
フィリピンをマスター
 フィリピンの海に潜って珊瑚を鑑賞する旅を繰り返しているうちに、「いつまでも東京で個人タクシーをやっていては人生の無駄だ」と感じるようになった。

 「私の場合は客との喧嘩が絶えませんでした。お客様は神様だとあがめられ、陸運局の介入は激しくなるばかり。もう個人タクシーなんか続けてられないという気持ちになりました。そしていろいろ規則がうるさい日本とはバイバイしようと考えはじめました。しかし長年連れ添った家内と別れるつもりはなく、『おい、一緒にフィリピンに行って住もうよ』と何度も誘いました。しかし家内はフィリピンだけは絶対に嫌だと言い張るのです。しかたなく、私は一人でフィリピンに移住することにしました。家内に慰謝料として、財産の90%をあげると言ったところ、喜ばれましてねえ…」

 マニラにリゾート開発の会社を設立、いろいろ出かけた末にプエルト・ガレラを選定、建設を開始した。

 しかし「名倉は日本人の金持ちに違いない」と見られだまされ続けた名倉さんは、「正義を貫くためには暴力が欠かせない」と考えるようになった。

 「私は日本刀やピストルなどの武器をそろえました。だましたフィリピン人を日本刀で追い掛け回したこともあります。ある時には、だました奴を小船に連れ込んで、沖に出てから大きな石とロープを見せ、海に沈めてやると脅かしました。そいつは恐怖におののき失禁して謝まっていました。私は、こんな男を殺(や)る価値なんかないと考えて許してあげました」

 「だました人は悪い、だまされた人は気の毒だなんて、のんきなのは、世界でも日本だけですよ。フィリピンではだました奴が利口で、だまされた奴はバカ。今では島の人たちは、いつもニコニコしているナグラだけど、怒らせたら恐いぞと思っているはずです。地元のボス、小さな子どもたちまでが、ナグラ、ナグラと、敬称なしで呼んでくれるようになりました。フィリピンでは、親しい間では呼び捨てがあたりまえですから…」

 だが現地の人間関係をここまで持ってくるまで、人の問題で悩むことが多かった。地元で見つけた感じが良い若い女性をリゾートに採用、いろいろ教えこみ、やっと客の前に出せると判断したとたん、同島の他の外国人リゾートオーナーがスカウトしてしまうケースも相次いだ。

 名倉さんにとってのショックは、辞めていったこの女の子はが、辞めた後でも平然として名倉さんのリゾートに遊びにきて、辞めたことを一切わびることもなく、あっけらかんとしていたからだった。

 「まったく理解できませんでした。こんな私の精神状態を救って欲しいと、フィリピンに持ってきた般若心経を唱えてみましたが、救われませんでした。しかし私を救ってくれた言葉は、意外にも取り寄せた日本語の聖書の中にありました」

 「フィリピンで事業が成功するかどうかは、押し寄せてくる試練に耐えることができるかどうかにかかっています。フィリピンに来た外国人に共通した試練なんかありません。しかもその試練はハンパなものではない」

 精神的に行き詰まった名倉さんは、原動機付き自転車でリゾートから10分ほど離れたドラガンと呼ばれるビーチにでかけて考えこんでいた。「この国はいったいどうなってんだとかね。そんなある日、そのビーチに行って見ると、マリア像が建っていたのです。初めてこのビーチでマリア像を見てから、どういうわけだかこの海岸に出かける回数はぐんと減りました。きっと、私はフィリピンをマスターしてきたからだと思います」

 東京の喧騒を離れ10数年。大自然の中に身を置く名倉さんは、初めての感覚に遭遇するようになった。「目の前に広がっているこの海の水が塩辛い、といったあたりまえのことにも感動するのです。海の波だってすごい。地球をかみ砕いていくのですから。自然の摂理をいつも感じます。このへんでは長男の誕生日などに犬を食べます。しかしその犬は骨と毛を除くすべてを食べてしまい、後には何も残りません。最初はなんて残酷な、と思いましたが、今ではそれが犬に対する本当の供養だと理解できるようになりました。犬をよく見てください。吠えても決して噛みついたりしません。日本では田舎でも犬を鎖につないでいますが、それでは犬に失礼というものです」

 名倉さんはリゾート建設中に知り合ったフィリピン人女性と再婚した。リゾートに近い人口数万のプエルト・ガレラのホテルに泊り込んで建設を進めていた時、ウイリン(WELYN)さんで、ホテルの支配人的な仕事をまかされていた女性だった。

 「英語もタガログ語もできない私にとってパートナーが必要でした。当時、彼女はホテルで働きながら学校の先生になるとか、奨学金を得て米国に行けるというチャンスに恵まれていました。悩んだ末に彼女は私のリゾートで働くことを決心してくれたのです。私たちはプエルト・ガレラでかなり盛大な結婚式を挙げました」

 リゾート完成後の名倉さんは、「闘鶏に夢中で、仕事しなくなった」とウイリンさんは筆者に嘆いていたが、夫に文句は一切言っていないともいう。

 タガログ語でサボンと呼ばれるフィリピン式闘鶏。ナイフを鶏の足に縛り付けてどちらかが死ぬまで戦わせる壮絶なものである。ウイリンさんは1957年にレイテ島生まれ、30歳ほど年長にあたる名倉さんは、「彼女をリンと呼んでいます。私の日本の籍に入れました。経営を彼女に一任しており、私は髪結いの亭主みたいなものです」とサボンに熱中中。

 「自然の風を楽しんでもらいたい。冷房の家に住む人は健康を考えない人だとしか思えない」という方針で冷房付きの部屋はない。また、客が移動電話を持ち込むケースは多いが、ビジネスを持ち込んで欲しくないと、電話も敷設していない。

 この19室しかないナグラ・ビーチ・リゾートに150人も宿泊する日もある。

 ルソン島とミンドロ島を結ぶフェリーの乗客も、ほとんどがフィリピン人で、ジープニーを借り切ってのフィリピン人の団体客が船の中から大騒ぎしていた。定員が二人であっても、リゾートにやってくるフィリピン人は5人、10人と1つの部屋に泊まる。そこで、外国人の場合は1人か2人で泊まるので1泊580ペソだが、フィリピン人の場合は1泊800とか1,000ペソになり、その価格は奥さんのウイリンさんがケースバイケースで決める。

 ナグラ・ビーチ・リゾートの存在を口コミで知って来る日本人もいるが、遊ぶ場所も乏しいことから日本人にはそれほど人気はない。しかし、駐車場がリゾートの中心部にあることが気に入って宿泊するフィリピン人が多い。部屋の前に愛用車があり、荷物の積み下ろしにも便利で、夜間のいたずらや盗難から車を守れるからだ。

 バブル崩壊からアジア各地で建設事業の中断すら目立っているが、プエルト・ガレラのビーチは現在も建設ラッシュである。人気上昇中のプエルト・ガレラでは、新たに土地を取得しようと考えても、地主が売り惜しみしている。1平方メートル300ペソで買った名倉さんの土地も、これまでに1,500ペソへと上がっている。ナグラ・ビーチ・リゾートは海岸に面しているが、国道からリゾートに入れるように、幅2メートル数十メートルの私道を作った。

 「フィリピンで土地を買う場合、国道に面している土地を買うなら問題ありませんが、国道から離れた土地は、進入路を確保しておかなければあとで必ずモメます。地権者が法外な通行料を請求してくるからです。できれば、5メートル幅の道路を自分で作り、その後に国に寄付するのがベストです。メンテナンスは寄付した後は国がやってくれるからです。毎年の税も免除されます。私のリゾートの場合は、資金不足から2メートル幅で国道まで土地を買いました」など、リゾート作りのノウハウを披露する。

(アジアジャーナリスト・ 松田 健)
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E-mail mazda@k.email.ne.jp