ミャンマー
 
ヤンゴンの朝
   
ヤンゴンの友人ミヤタンさんの一族と          マンダレーの雲南会館前のコーヒ店の親父
観光産業育成に全力のミャンマー
 
ミャンマー北部のバガンヤン
 バンコクのミャンマー大使館でビザを取って久しぶりにミャンマーに出かけた。サートンの大使館早朝に行って並んだのだが、ビザの申請が受け付けられたのは十二時十五分くらいで本当は午前中の締め切りが終わった時間なのだが、なんとか粘って午前中最後に受け付けられた人となれた。「番号札をあげるので午後は1番から並びなおして欲しい」と案内のミャンマー人のオジサンが言うのを無視、「どうしても今日中にビザをもらわないと明日の航空券だから」と粘ったのである。そしてエクスプレスの扱い、上まし料金で当日の夕方に無事ビザを受け取ることができた。
 早朝から3時間も並ばされたわけだが、並び始めた当初、三時間も並んでしかもビザ申請も受け付けられるかどうかも不明だったため、私の前に並んでいたドイツ人夫婦は『タイからミャンマーに往復したかったが諦めます。入国時にビザが取得できるラオスやカンボジアに行きます』とミャンマー観光をあきらめていた。
 
2006年のASEANツーリズム・フォーラム成功を今から目指す
 東南アジア諸国連合(ASEAN)ツーリズム・フォーラム(ATF)が毎年ASEAN(東南アジア諸国連合)の10か国持ち回りで開催されており、ASEAN各国の観光大臣などの他に日本、中国、韓国などから閣僚クラスも参加している。今年はすでにカンボジアのプノンペンで開催、二〇〇五年はマレーシアのランカウイ島、2006年にはミャンマーでの開催が決まっている。
 ミャンマーでは九六年十一月から一年間に渡る初の「ビジット・ミャンマー・イヤー(VMY)」に国を挙げて取り組んだが、半年後にはタイで金融危機が発生したなどから観光振興にはさほど結びつけられなかった。そこで二〇〇六年のATF開催をぜひとも成功させて、一気にミャンマー観光を盛り上げたい考え。

 ミャンマー各地で観光インフラ整備に国を挙げて努力していることが実感でき、カンドウジ湖の水質浄化や周りの植林などに130万ドルも投入した整備が進んでいる。3月にはキン・ニュン(KHIN NYUNT)首相自身も整備状況を視察し、カンドウジガーデンとヤンゴン動物ガーデンの振興状況について事業者との会議にも出席している。
 また官民によるミャンマー観光促進委員会(MTPB)が設立され、この四月末には日本で初のミャンマー観光促進プロモーションを展開する。またMTPBの実行部隊としてミャンマー内外の民間の観光機関によるマーケティング委員会(MMC)が設立され、ヤンゴン中心部にあるトレーダース・ホテル3階に事務所が設置されている。

 
ミャンマー北部の観光インフラ開発も進む
 ユネスコ(国連教育・科学・文化機関)が展望台を作るのなら世界遺産として認めないなどと文句をつけているバガン(BAGAN)を数年ぶりに訪問した。これまでこの展望台の写真は公開されていないため、簡単な鉄骨の展望台をイメージしていたが、実際に目にしたのは下部にホテルをつくり、その上部にタワーをつくる(写真)私が予想していたより大規模だった。
 しかし、現地で考えてみたのだが、日本の古都、京都でも、ビルの上に立つ京都タワーや、近年では巨大な京都駅ビル建設時に京都のお寺などが反対したが、今では古都京都に溶け込んだ風景になっていることを思いだした。三千基以上あるバガン(BAGAN)のパゴダ群は、アンコールワット、ボロブドールと並ぶ東南アジア三大遺跡とされるが、このパゴダに観光客がよじ登るなどの破壊から守るためにも展望タワーは必要悪かも知れないと感じた。
 
航空便が少なすぎることが最大のネック
 キン・マウン・ラ局長は、「外国のエアラインに対して今後はミャンマー国内線への以遠権も検討したい」と明らかにした。たとえば、「日本の成田からジャンボ機(747)がミャンマーに運行されることになった場合、4,000メートルの滑走路があるマンダレーなら問題ない。そこでもしそのようなジャンボ機の便が実現した場合、例えばタイの各地からすでにマンダレーに運行しているジャンボより小型機がミャンマー国内のマンダレーからヤンゴンまで延長してもらうなどの手配を整える」と答えた。
 また同局長は、「ミャンマーのセールスポイントは世界でももっとも治安が良い国だという点。観光資源としてまだ日本にほとんど知られていないのがビーチ・リゾート。ベンガル湾に面したサンドウェなどのビーチはヤンゴンからよりマンダレーからの方が航空機で近い。これまでビーチを訪問する外国人はこれまで欧州人が多かったが、日本人観光客にも広い白浜が広がるミャンマーのビーチやその開発にも目を向けて」と希望した。
ミャンマーの機械メーカーの素顔
 
 ミャンマーは現在でも貿易が厳しく規制され、一旦輸出が認可された商品でも、コンテナ単位での輸出許可であるため、次ぎに輸出する時に再度許可をとる必要がある。しかもすぐに認可されることは少ないなどの非効率さから輸出業に嫌気かさして転業したところも多い。
このほどミャンマーでローカルの機械メーカー5社ほどをアポ無しで訪問する機会があったが、どこでも大歓迎だった。しかしどの会社でも、社長でも名刺を持っている人など1人もいないし、会社のパンフレットといった一切の書類もない。しかしそれなりの新製品開発、部品とその製造機械を作って、その機械で作った最終製品も販売している。
 かつて、社会主義下のミャンマーでは、勝手に機械を製造することすら許されなかった。だが、モノ作りの自由化が一定程度進んだミャンマーの機械を作る町工場では活気があふれていた。しかし工場に導入されている機械のほとんどが、古いもので、それをだましだまし使っている現状。しかも機械を作る新品部品や原料は手に入らないため、かつてタイなどから国境貿易などで入りその後スクラップ状態になっている機械をばらして部品や機械を作る。
 工場に導入されているある手動の工作機械の横には「雲南冶金局」と刻印されていた。きっと中国の雲南省で作られたものだ。また、ある工場で「30万チャット(実勢レートで約4万円)で買った」という英国製の博物館にあるような古い工作機械に見入っていた私に対して、経営者は「この機械を作った会社はもう存在しないでしょう」と説明した。
 ミャンマーの機械製造工場は、まるで日本の明治時代といった様相である。

 「なぜ機械を作っているのかって?私にはこの機械のことしか分からないからですよ」
 というのは、プラスチック袋生産用のラインを製造している「ダイヤモンドファミリー」という機械メーカーの経営者であるアンクーさん。50歳を少し越えたアンクーさんだが、長く通った高校を出てから今日までの30年間ほどを各種の機械を数百台以上つくってきたが、現在ではミャンマーとしてはかなり難しいプラスチック袋の製造機などを作っている。
 「毎日、目が覚めた時が仕事を開始するときです。夜も早くて8時、だいたい10時頃まで働いています。休みを取ったことはこれまでありません」とアンクーさん。
 「ダイヤモンドファミリー」の本社自宅兼の工場があるのは、ヤンゴン市タームエ区で、ここらは今でも停電が多い。しかし、「停電を理由に客と約束した納期を遅らすことはできない」と、アンクーさんは「納期よりも早め早めに機械を作っていくこと」に努力している。「やっと発電機が買えました」とアンクーさんは工場が小さい住宅地の長屋の一角であり場所がないので道路の上にこの発電機を置いた。
 もうかなり前、アンクーさんは1度だけ海外に出たことがある。バンコクとシンガポールに工作機械展を見に行ったのだ。というのも、機械を作るための情報やモデルなど何もないアンクーさんは、台湾や中国などで製造されている機械のパンフレットを取り寄せ、それから得られる情報だけを頼りに機械を作っているのである。
  アンクーさんに、今年の経営目標を聞いてみた。
 「ミャンマーの経営者に今年や来年の目標を聞くのは野暮ですよ。私たちもそういう長期目標をたてて仕事をしてみたい。しかしミャンマーの現実はそれを許しません。国の政策も毎月のように変わります。材料も今後もちゃんと入るかどうか心配です。私たちは今日と明日だけをどうやって生きるか考えて、一生懸命のその日暮らしなのです」と明るく答えてくれた。
 そう聞いた私はなんだか涙がでそうになってしまった。
 アンクーさんの母はもう75歳だが、奥さん、お姉さんら供毎日工場を手伝っている。かつて印刷業を営んでいたという父親はアンクーさんの10代の頃に出家して田舎のお寺に入山した。それ以降は父が家に戻ってきたことはない。そこでアンクーさん家族は年1度ほどの休暇をとって父親に会いに行くのをなにより楽しみにしている。

 ヤンゴン中心部から国際空港をさらに北の方向へ車で40分ほどのところにあるアウンミン(AUNG MYIN)インダストリー社もローカルとしてはかなり大手の機械メーカーで各種機械を年40-60台ほど製造している。
 アウンミン社の工場の屋根はトタン板やワラブキで、各種の機械を置いている地面も露出しておりコンクリートなどの床はまったくない。建物の横にも窓もひとつもないため、雨天で横風の日などいったい機械は大丈夫なのかと心配になる。
 製造しているのは、農業国であるミャンマーで多く産出するコメやマメ類の自動選別機、サトウキビを絞ってジュースを作る業務用機械、業務用氷(こおり)カキ機、練炭自動製造機など。練炭製造機は1台120万チャット(17万円ほど)で、すでにかなりの台数を製造販売した。「1台の能力は日に1万5,000個で、ミャンマーの市場において練炭1個が10チャットで販売されています」とウ・トォア・オン社長。
 最近、建築用の8つの穴開きレンガ製造機も製造してみた。2,000万チャット(約300万円)の1号機を使って最終製品である穴あきレンガの市場への直販を始めた。ミャンマーにはこのレンガ製造機を作る同業も数社はあるようだが、「当社の新機械だけがすべてきれいな穴がそろってレンガの反対側まで見通せる穴がきれいに空くミャンマー1の機械なので、売るのが惜しくなり、近くの国有地を借りてレンガの製造も開始しました。その土地代はミャンマーの土地局に、製造したレンガの現物で支払っています」という。
 穴あきレンガ製造するための土は工場の地面をそのまま利用できるが、その土を微粒子化する粉砕機も自ら開発した。レンガ生産も始めて1年後の今、土を掘った跡に大きな穴ができたので「近くここに水を入れて池にして魚の養殖も始める」とウ・トォア・オンさん。
 
 このように、ミャンマーの機械メーカー各社では経営者一族と従業員が一丸となって、仲良く、熱気にあふれている。しかし従業員の多くは裸足であり、経営者だって作業シャツもぼろぼろで穴があいている貧しさ。年商も1,000万円にさえ遠く及ばないのだが、従業員には上記2社ともにミャンマーの相場以上の給与を支払えており、経営者が銀行に借金することもまったくなく、設備投資もすべて現金決済。
 ミャンマーの工場でのモノ作りを見ていて、税金対策、息子が事業を継がないなどの悩みが大きい日本の中小企業より幸せではないかと感じてしまった。

ビルマ・インパールから奇跡の生還をはたした日本兵に聞く
 
友人の松尾義久紹介
長崎県出身1936年生まれ。1961年立命館大学卒業、同年日立ツール(株)入社。1996年同社定年退職後、ミャンマー国を訪門、ウ・ヴェップーラ大長老のもとで出家、マハーシ僧院で修行。帰国後、在家信者として仏教講演活動をはじめる。また定年後2年間、日本工具工業会の会報編集主幹、「機械工具100年史」の編集責任者を務める。現在、(株)マツダ監査役、(社)日本ミャンマー友好協会関西支部事務局長。(社)日本ミャンマー友好協会 のホームページは http://www.jmfa.or.jp/ です。

太平洋戦争 1941(昭和16)年12月8日、日本が米英に宣戦布告で開戦。
         1942(昭和17)年1月からインパール作戦を含むビルまでの戦いが始まる。
         1945(昭和20)年8月14日、ポツダム宣言受諾で戦争終結。

(インパール作戦の概要については後述)<文中敬称は略させていただいた>

 
 今や歴史の闇の中に消えてゆかんとしている太平洋戦争、この20世紀最大規模の大戦とはいったい何だったのか? もう戦後58年、真珠湾攻撃による開戦からすると62年にもなる。

 戦争体験者の孫の世代の学生に、半世紀前に戦争で日米が戦ったということ聞かせても「え!本当」という答えがかえってくる。中学校の現代史で習っているはずなのだが、あまりに戦争のない平和な年月が太平洋戦争を実感のないものにしてしまったようだ。

 敗戦後、焼け野原の日本に戦地から戻ってきた人たち、国は破れても山河はあった。しばらくは虚脱状態であったに違いない。しかしそのあとから早々に再建が始まった。闇市経済からバブル経済まで、延々と働き続けてきたのである。

 ここ何年も不況といわれて今日にいたっているが、日本はまぎれもなく経済大国である。貿易収支も黒字だし、4,800億ドルを越す外貨準備高、1,400兆円もの個人金融資産、いずれも世界のトップクラスである。敗戦国がよくぞここまで漕ぎつけたものである。この源泉は一体何だったのだろうか?

 この素朴な疑問の一端に応えるため、戦後ゼロから会社を立ち上げ、現在も矍鑠(かくしゃく)として活躍されている帰還兵方々の話をまとめてみた。

 軍隊仕込みの所為か、お会いした皆さん例外なく年より若く見え、声もよく通り、背筋がシャンとしされているのが特長であった。年齢は80歳以上、いわゆるお爺ちゃん、中にはひ孫もおられるという世代。失礼ながら今のうちにお聞きしておかないと、永久に大事なことを聞き漏らしてしまうのではないか、という「あせり」にも似た気持で取材をさせていただいた。

 太平洋戦争中、はるか南方の島々やフイリッピン、インドシナ半島、中国、満州、シベリアなど各地から次々帰還された兵士たち。それぞれ戦地での思いはひとしおだろうが、今回は激戦中の激戦といわれたインパール作戦の地、ビルマ(ミャンマー)から奇跡の生還を果たされた方々に焦点をあてた。

 
さて、これからどうなる?
 今、世の中不景気だ、リストラだと大変です、先が見えませんが、という問いかけに「人間落ちるところまで落ちないとわからないよ、景気なんて当分よくならないね、まあ孫の時代になって1からやりなおしだよ」と明るく笑うのは平田敏夫氏(83歳)。年には見えない毅然とした紳士、温顔からはとても密林で銃を取って戦われた人とは思えない。

 福井県で徴兵され、インパール作戦では安52師団に所属、英軍と戦闘をつづけ、死線を越えてこられた。その後1945(昭和20)年8月20日にヤンゴンで軍の上層部から停戦命令が出る。停戦とはいいながら実際には敗戦であった。この一ヵ月後に銃器類を供出、投降、英軍の収容所入りとなる。

 戦線にいる間、決して負けているとは思わなかった、負傷してやむなく自爆するものもいたが、事実日本軍はよく戦ったと平田氏は淡々と述懐する。日本人は叩かれ負けてくると強い、戦争ではなく平和のうちにも立ち直る力を持っている、悲観することはない、と力説する。

 現在は物流業務を幅広く扱う宝梱包株式会社(本社:京都)の現役会長。終戦当時捕虜としてヤンゴンで働かされていた折、港湾の荷役作業で木箱と段ボールの使い分けなどの作業をさせられたのが原体験となって帰国後、梱包の事業を興した。

 収容所持代、少ない食事で働かされ、倒れる仲間もいる中、監視の目をくぐり、米や食料品をこっそりくれたビルマの人たちの温情は今も忘れられないという。それあってか、現在のビルマの子どもたちの絵を会社の倉庫で預かり、ビルマ(ミャンマー)の広報役として各種展示に供している。また戦友たちと協力し、ビルマ僻地の小学校建立にも尽力している。

 男たるものは一旦事が起これば命を投げ出す覚悟がないとね。日本の良い伝統や道徳、過去の価値観を持ち続けることが大事です、とも言う。

 
責任と誇り
 1942(昭和17)年5月、破竹の進撃を続けていた日本軍。イラワジ河に架けられた唯一のアバブリッジ(鉄道と自動車併用)の敵に爆破された橋桁を修理。電話保線所開設の命令で戦場のあちらこちら飛び回っていた藤定信和氏(84歳)。兵長として十名の部下を預かり通信網の拡充に努めていた。まだ緒戦で後の敗退の状況からは考えられない平和で無聊な日々であった。

 毎日のように各部落からバナナ、マンゴー、鶏、卵などの差し入れがあり、水汲みから炊事の手伝いまでしてくれる。無料奉仕である。こうして素朴で謙虚なビルマ人と接していると、何か異国民とは思えない親しみがありましたという。勝ち戦の頃の話である。

 しかしその後モガウン地で50倍の敵を前にするという異常事態での戦いを強いられる。あのとき全滅してもおかしくなかったと藤定氏はいう。しかし計算上では不可能とは思いながらも希望を持って対処していると、予期せぬ救援で生還できたという。その他ビルマ各地で苦境に追い込まれ、もう死んだほうが楽だと何回も思った。しかし最後の最後まで諦めはしなかった、それが生還できた理由ですと。

 長い軍隊生活(7年あまりの兵役)でこの得がたい体験が復員後の人生に大変役立ったという。

 帰国後、会社勤めをするがのちに独立。1956(昭和31)年から大手紡績会社を相手に下請け加工を始める。輸出用寝具や縫製加工である。最盛期には日本の総輸出量の90%近くを独占、昭和41年から毎年通産省輸出貢献企業の認定を受け、ほか神戸税関からも保税工場に認可される、まさにわが世の春で利益を得た。

 しかし天涯孤独の自分が生き延びて、家族のある多くの戦没者がいる。このことに思いを致したしたとき、自分が死ぬまでにかれらの供養をせねばと発願し、昭和52年にあっさり会社を譲渡してしまうのである。

 藤定氏はたとえ陸軍兵長で小さな保線所長であっても、自分の担当区間に課せられた任務のすべてに対し、責任をもつと同時に常に誇りを持って対処することに徹しましたと語る。英軍の残したグライダーで日用品を作ったり、テント地でシャツやズボンを作った、縫い針までワイヤーの鋼線でつくったという。今はまだまだ使えるものをどんどん捨てていく時代でじつに嘆かわしい。まだまだ使用可能な電気製品が捨てられているのを見ると隔世の観がしますと。

 現在はミャンマーの若い学生を何人となく面倒を見、折をみてミャンマーへ慰霊の旅に出ている。もう二十数回にもなるそうだ。

 
悠々と夕日でもながめて
 「夕日さんさんの会」という5年前に大阪で生まれたボランテイア団体がある。夕日のもつ魅力を、もっと人と自然との中で見直そうという趣旨でスタートした。この会の会長が中西喜次氏85歳である。大戦中は陸軍の気象隊員として旧満州、台湾、マレー半島、ビルマを転戦、プノンペンで終戦。タイのナコンナヨークで抑留生活後、1946(昭和21)年6月に復員した。

 かってのビルマで、パゴダから西に太陽が沈むのを拝む人々の風景は忘れられないという。帰国後は工業試験所で油脂、食品、チョコレート製造技術の研究に従事。同所を退職後、総合開発研究所を設立、所長におさまる。現在数多くの役職をこなし、今も席のあたたまる暇がない。日本薬膳研究会々長、(社)日本ミャンマー友好協会・関西支部長でもある。

 文句言う前にどんどんやることをやらんとね、と85歳とは思えぬ行動力である。斗酒なお辞せずで、孫のような世代となんら矛盾なく交流もしている。

 中西氏は、あまり戦争のことを語らないが、近現代の戦争は気象が勝敗の鍵をにぎることを強調する。たしかに湾岸戦争も気象衛星のデーターを分析、長期予報をもとにで作戦を練り、熱砂の気候中の戦闘を避けていた。

 インパール作戦の失敗は、日本では想像もつかない雨季に進攻したことにある。この地の降雨量は獣道を渓流となし、山道を濁流逆まく河と変えてしまい、交通を途絶させてしまうものすごさなのである。たかが雨ぐらいということが日本軍の油断であったと述懐する。

 中西氏の最近の驚きは、小学校で「夕焼け小焼け」や「赤とんぼ」の歌を歌ってはいけないと聞いたことである。

 「夕焼け小焼けで日が暮れて、山のお寺の鐘がなる。お手々つないでみな帰ろう。カラスと一緒にかえりましょう」子どもたちが仲よく手をつないでしかもカラスと一緒に帰るという、人間だけではなしに、動物も含めて、いわゆる共生というテーマが計らずして入っている。そんな素晴らしい歌を日本人は小さいときから習ってうらやましい限りですと、なんと韓国の学者から言われたそうである。

 ところが今、日本では歌えない。情けない、けしからんと、同じ「夕日さんさんの会」の哲学者山折哲男氏も嘆いたそうである。

 山のお寺という歌詞で、教育の場に特定の宗教を持ち込んではいかんと聞き絶句。国には過去の良き伝統があり、その上に現在がある筈。その文化を戦争の原因に結び付けようとしてるのではないか。

 戦前は悪と決め付ける愚をおかしてはならないと、今の教育界の精神面の幼稚さを叱るのである。

 なを、酷暑のビルマの各地で、戦死、戦病死した不遇な戦友たちのことを思うと、常に心が痛み、この将兵の霊を慰め、冥福を祈ると同時に、二度と戦争はすべきでないと深くこころに刻んでいる。

 
何かに見守られて今日まできた
 厳しい軍隊の経験は決して無駄ではなかった。訓練で鍛えられた精神があってこそ生き延びて日本に戻ってこられた。しかし死んでいった幾多の戦友のことを想うと本当につらい。ただ彼らに見守られて今に至っているのですと語る馬渕祐一氏(84歳)。現在京都室町で絹白生地(着物素材)卸売会社、丹陽株式会社の会長職にある。同社のカナダ支店ではテナント事業もやっており、別会社で児童教育のパソコンソフトも開発・販売するというユニークな企業。

 馬渕氏は太平洋戦争開戦の前年、1940(昭和15)年に現役兵として入隊、中国に派遣された後インパール作戦に参加、辛酸をなめ、まさに生死の境をさまよった。ビルマからタイのバンボンへ入り軍の体勢を立て直さんとしたとき終戦となった。そのときに「潜行三千里」で有名な辻政信参謀も一緒だったそうだ。そして戦後会社を立ち上げた。

 これまでひたすら仕事にまい進してきたが、いつも何か目に見えないものに自分が支えられていることを信じ、己の運命を切り開いてきたという。商売は不思議に儲かった、意図しないのにうまくいった、これは戦友の支えがあったからですと断言する。今も毎日戦没した友に祈りをささげる毎日を過ごしている。

 こういった話はほかにも多い。彼らからすれば普通に商売をやってきただけというが、常人から見ると相当の努力をしていると映っているはずだ。いずれにせよ生死を乗り越えた体験者には敵わないということであろう。

 その馬渕祐一とともにインパール作戦で戦い、日本に帰還したのが塚本幸一氏(故人、陸軍曹長、平成10年逝去)である。いわずと知れたワコールの創立者。戦後新たに女性用下着に着目、業界トップの上場会社にまで育てあげた男である。

 そのいきさつはこうである。塚本氏は帰国の第一日目に護国神社に参詣、死んだ戦友に帰国の報告をしようとした。そのおりに、米兵と日本女性と抱き合っている姿を目撃する。その女性のけばけばしい化粧、あまりに美とは程遠かったことに衝撃を受けるのである。

 「・・・・この敗戦のドン底から明るい笑顔を取り戻すものは、女を美しくすることである。女が美しい!それは平和なのだ。早鐘のように私の心を打つものを感じた。これが今日のワコールをつくっていく、一番の土台となった」と社内報「知己」に(連載昭和39年4月号)に当時の心情を書いている。

 塚本は太平洋戦争勃発のちょうど1年前、召集されて昭和15年12月に55人の戦友と中国大陸へ出発する。軍事教練を受けタイ、インパールへと移り、そして激戦。戦い破れ帰国できたのはわずか3人であった。ほとんどが戦死、爆死、病死してしまったのである。この過酷な体験から、自分だけ生きて帰ったことになみなみならぬ意味合いを感じ、何か生きているかぎりやらねばならぬ、という使命感を持ったのである。「それが塚本の会社経営に大きく活かされたのです」と戦友であった馬渕は語る。 

 敗戦の日本に必要だとするから、生かされて帰国するのだ、といった感覚、ビルマでの体験が経営の原点になっていると、塚本の秘書として身近に接していた中村年男氏は語る。氏は日本万国博覧会でワコール・リッカーミシン館の館長であった縁で、その後の塚本の財界活動を補佐してゆく。

 塚本同様に、戦後上場会社に育て上げた大和ハウス工業の創業者石橋信夫氏(故人)も同世代である。

 陸軍将校として従軍のあと帰国。戦後5年目から住宅の骨組みを鉄パイプで作ることを考案、旧国鉄倉庫や電力会社の寮など、プレハブ住宅で戦後の建築需要に応え、復興に寄与している。

 
捕虜生活も人生経験
 ビルマでの2年間の収容所生活を、一歴史学徒の体験として書いた会田雄次氏の名著「アーロン収容所」。中央公論社・新書としての初版が1962年だが版を重ね、今の書店にあるのは84版である。かくれたベストセラーといえよう。のちに京大名誉教授になられるが当時は27歳の青年であった。。

 内容は戦勝者である英兵の支配する収容所で、白人優越の現実をイヤというほど味あわされる話である。銃弾や暴力を伴わないが、ジワリジワリとこたえる英国人の陰湿な態度。日本人、ひいてはアジア人蔑視の実態。たくまざるユーモアをまじえての描写が救いであるが、収容所での捕虜という極限状態での比較文化論としても秀逸である。会田雄次氏は結局のところ英軍、英国に対し拭いがたい不信と憎悪を抱いて帰国するのである。

 ところが「いや、収容所では大変紳士的に扱ってくれましたよ」と微笑むのは当時陸軍薬剤中尉だった辻保年氏(83歳)。

 ビルマからタイのチェンマイに着のみ着のままで逃れ、山越えしたところで終戦となり、名称も不明の英軍の収容所へ放り込まれる。約3ヶ月の捕虜生活だったが、さほど苦痛ではなかったという。いよいよ帰国となってからチェンマイからバンコックまで徒歩での移動は過酷であった。しかし、この折も英兵の取り扱いは丁重で、毎夕刻には露営、十分な休息をとらせてくれた。

 「戦場に架ける橋」で日本軍による英兵捕虜の酷使があったことは有名だが、その報復的なことはなかったという。    

 同じビルマで戦っても、敗退がはじまった頃に終戦になり、結局私は運が良かったのですという。他の部隊の様子をあとから聞いて、しみじみ「人の運」をかみしめましたと語る。バンコックから船で浦賀に着き、無事帰国。

 その後、これからの時代の医療の必要性を痛感、医大に入りなおし研鑽を積む。次いで病院経営に着手。諸外国に比べまだ高価といわれる医薬品を、販売力の強化により価格を下げるべきであるとの認識から、

 現在は京阪地区の郊外中心に大型薬局フランチャイズ店も展開している。

 マンダレー近くの戦闘で部隊とはぐれ、捕虜になりインドのピーカーネルの収容所に送り込まれた一人の兵卒がいる。ここはアーロン収容所とは違って、毎日の軽作業のあとは、トランプや麻雀、花札をしたり、月に一度は演芸会、収容所対抗の野球や運動会もあったという、いたってのんきな捕虜生活だった。収容所の厳しい状況が多かった中、ほっとする話である。

 ただ100人前後収容されていた中に、戦闘中に別れてしまった仲間に再会するも、捕虜になった事情はお互いに一切喋らなかったという事例がある。軍人として捕虜になるということは、辱かしめを受けたことであり、大変な恥だという当時の戦陣訓があったからである。

 平成15年の現在、実は油断した隙にグルカ兵(英軍傘下のネパール兵)に取り囲まれ捕まった事の経緯を詳しく戦友会の会報に投稿されている。はじめて伝えてもよい時期と思い、書いたという訳である。それにたいして会報編集子の戦友いわく「自分を責めるのは今日限り。公表された辛さ口惜しさは戦友皆で受け持って行きます」と結んで慰労している。

 戦後60年以上も悔しさ、つらさを一切公表しなかったこの兵士の心情は、現代人ではとうていわからないだろう。この投稿ののち安堵されたのか、老兵は静かに亡くなられている。これは、まさに男の尊厳、誇りを持ち続けた美学であろう。

 
写真は貴重品
 ビルマ戦線を駆け巡り、烈、祭、弓の3兵団に物資補給をし、泰緬線プランカシー、モルメン、ペグー、マンダレーなどを転々とし、最後にムドンのゴム林で終戦、抑留された下村一郎氏(84歳)。彼が当時の兵士たちの様子を撮った写真をひそかに持ち帰っている。白黒の色あせたものもあるが(掲載の写真)今となっては貴重な歴史のもの云わぬ証言者である。戦意高揚にための官の報道写真にはないリアリティがある。

 若き日の下村少尉は、1943(昭和18)年2月東京陸軍軍医学校から名古屋陸軍病院に移り、ビルマ派遣第15野戦貨物廠に転属となる。その前に陸軍病院の軍医から「記録しておけば今後の役に立つだろう」と写真用フイルムを渡された。当時フイルムは一般には入手不可能で、レントゲンフイルム扱いでこっそり融通してくれたらしい。急ぎ名古屋市内でセミミノルタじゃばらカメラを購入、これが戦地での記録に活用されたのである。

 今の下村氏はすべての仕事(本業は薬剤師)から引退し、若い時からの夢だった外国語の勉学(フランス、韓国、ポルトガル、ドイツ)にはげむ余裕の帰還兵である。

 
やはり戦争はすさまじい
 
いつ死ねるか、いつ死ねるかを思いつづけた!
 インパール作戦に参加し、第一線で戦った帰還兵、今ではあまり語りたがらないことがある。負け出してからの敗走につぐ敗走で、敵弾に当たって先に死んだ戦友をうらやましいと思うほど悲惨だった体験である。敵の攻撃を避けながらの逃避行。負傷しても傷の手当てなどできず、薬なく、食料もなく、弾薬もないといった状況、しかも熱帯のジャングルの中である。故国や親兄弟のことが心をよぎりながらも、いつ死ねるかを考えるしかなかったという。
 戦争の悲惨さをあえて強調するつもりはないが、このインパール作戦が失敗し、敗退してゆく折の様子がいかにすさまじかったかを知る一つの詩を紹介しよう。題して「自爆」

 生きて祖国に帰りたかったに違いない、父であり兄弟であり息子でもあった兵隊たち。この詩から、追いつめられた状況が肌に粟を生ぜんばかりに迫ってくる。

 この詩は戦後生還し呉服商を営む桑原眞一氏(82歳)の作である。

 インパール作戦に参加、イラワジ河合戦、マンダレー市街戦(9日間の激戦)を経てタイのバンボンで終戦を迎えている。いつも微笑をたたえ、明るく論壇風発といった人柄、こんな過酷な体験を宿している人とはとても思えない。現在、社団法人日本ミャンマー友好協会の理事で日緬友好に活躍している。ビルマの若い留学生も数多く面倒を見ており、家族ぐるみの交流をしている。

 
「四つ這い行軍」と題したビルマ、インパール作戦での生々しい描写を紹介する。

・・・・・中尉は担架の上で、青い顔をして目をつぶり、小さなからだを折り曲げ、手をあわすような格好をして乗っている。それをかつぐ作業隊のわれわれは、昨日から一粒の米もはいっていない。

かつがれる者、かつぐ者、お互いの顔は日焼けと垢とでまっ黒。汗か涙かわからないが顔はぬれている。そして、その顔をこすったあとだろう。墨でいたずら書きしたようなひげができている。

誰もしゃべっている者はいない。

うしろの方でさかんに、銃声と迫撃砲がいりまじって聞こえてくる。・・・・・・・

私たち担架班のそばをたえず前後してやってくる四つ這いの兵隊がいた。両足をやられているのである。どこで捜してきたのか、膝小僧にボロギレをいっぱい巻いて、背中に飯盒をくくりつけ、まるで傷ついた犬の行進だ。もう涙もつきて、出るものすらなく「オーイ待ってくれ、何か食うものはないか、いっしょに連れて行ってくれ」・・・・・人間が四つ這い山を登ることは可能だが、下りることはとてもできたものではない。・・・・・・急な坂にくるところげ落ちて行くのであった。ガッチャン!ガッチャン!ガッチャン!そして木の根などにぶちあたり止るのだ。それでも私たちのそばをはなれず三〜4日はいっしょについてきた。・・・・

 
この四つ這いの兵隊は軍馬の肉にやっとありついた後、死んでしまうのである。昭和19年6月末か7月のはじめ、ウクルルに着く前と記憶しているそうで、終戦の1年前である。なんともすさましい光景である。

このような記述からすれば「いつ死ねるか、いつ死ねるか」と反芻する気持ちがわかる。前出の馬渕祐一、当時陸軍軍曹の体験である。

以下は後のワコール創立者である、当時陸軍曹長だった塚本幸一の体験記(遺筆)である。

 

 20名足らずの兵力となった中隊は、全員が決死隊となった。・・・・22時ごろ攻撃前進に移った・・・・

敵前40ないし50メートル付近まで肉薄、いよいよ“突っ込め”の合図が出るばかりの張り詰めた気迫を感じ「いまだ!」と呼吸を整えた瞬間、敵陣から猛烈な射撃を受ける。・・・・敵の射撃はわが隊列に向って標定でもしているような激しさである。止まっていれば損害が出る。近くの門のようなところから民家に飛び込む。敵の死角にはいってから集結し、人員を調べると二人の犠牲者が出たことがわかった。・・・・

 
 このあと塚本曹長は、負傷兵を背負い大隊陣地に復帰する。夜の10時から始まった戦闘が終わったときには、もう夜が明けかかっていた、と記している。

 この2文は、限定出版された「二つの河の戦い」より抜粋した。一兵卒からみた戦場がありのままに記述されている。これはインパール作戦で生き残っている帰還兵に、文章力は問わないからと募り、4年がかりでできた冊子である。1969(昭和44)年8月15日、限定出版されたB5版、厚さ4センチにもなる大冊で、内容はなかなかどうして大変な表現力である。死と隣り合わせだったゆえに文字が奔流のよう迫ってくる。世にあまた出ている戦史ものは指導者ベースで見たものも多く、このような生々しい記述のあるものは少ない。あえて紹介した次第である。表題の二つの河とはイラワジとチンドウインのことである

 
ビルマ メロメロ
 
 ビルマに惹かれ、何度となく訪れる、ビルマ大好き人間をビルマメロメロとかビルキチ(ビルマ狂い)とか云う。なんとも奇妙な現象ではある。べつに気候風土が快適というわけでなし、果物は豊かだが、農耕中心のリッチとはいえぬ国である。ただ同じ仏教国という共通点もあるにはあるが、それも理由ではなさそうだ。

 昨年3月81歳で亡くなられた作家の古山高麗雄氏、ラオスで終戦を迎え、サイゴンで戦犯として収監され復員。一兵卒として東南アジアの戦場を見てきた体験を書いてこられた。戦犯刑務所の体験をまとめた「プレオ18の夜明け」で芥川賞を受賞、当時50歳の新人作家として報道された。その後ビルマ戦線のことを書いた「フーコン戦記」ほか三部作で平成12年に菊池寛賞を受けた。自他ともに許すビルマメロメロであった。

 「ビルマ以外の帰還者には見られない、なんかビルマと相性があう、というのでしょうか、それ以外には考えられない」と書いている。(日本経済新聞2000年12月10日掲載)

 戦時中、ビルマで道案内をかってでてくれた現地の人たち、行き倒れになっているとき介抱してくれたり、こっそり衣食をもらって生き延びた日本兵は多い。食糧調達で現地の人たちにはずいぶん迷惑をかけたと洩らす人もある。なのに戦後捕虜生活を余儀なくされた日本人はビルマの人たちから米を世話してもらっている。それも英兵やゴルカ兵の目を盗んで運び込んでくれたのである。日本人には好意以上のものをもっているとしか考えられないのである。また立ち直って英軍をやっつけてくれ、とビルマ人から云われた人は多いはずだ。なにか心やさしいビルマのひとたちに「深くのめりこむ」気持ちもわかると古山氏も語っている。

 戦友の慰霊祭のため今もビルマを訪れる人は、例外なくビルマのために何かしてあげたいという気持ちの人ばかりである。戦争中日本軍の走り使いをしていた少年が、いまは村長になったりしており、ほほえましい交流がつづいている例もある。文房具の寄付や小学校を建てたりするケースは枚挙にいとまがない。

 表現はおかしいのですが、数多ある戦場のうち何ゆえビルマだけに肩入れがこんなに長続きするのか、不思議です、と語る取材した帰還兵のほとんどがビルマメロメロ、ビルキチだった。

 
帰還兵がのこしてくれたもの
 
 彼らの青春はまさに戦場であった。そのことに悔恨はないようだ。インパール作戦の失敗はいまでは明らかだが、それに対し批判がましいことばは出なかった。

 今は好々爺のひとたちであるが、不幸な戦争に駆り出されたとの反発はなく、むしろ国のため戦い、生き残った自分に誇りを持っていると感じられた。ただ分に応じた生き方をしてきたに過ぎないと明るい表情で言われるのである。

 戦争のことはあまり喋りたくないといって、取材を拒否される方もあったが、結局は応じていただいた。 淡々と語られる戦争体験、不思議にも今日まで生かされてきたこと、国のため戦って亡くなった戦友たち、かれらが今の自分を支えてくれている、という実感。これは帰還兵の100%が異口同音に表明された。

 ところで、昨今の経済情勢について、とかく、やれ政府の施策が悪い、行政が駄目だなどと他所のせいにする風潮が著しい。政治家も経営者も、すべてとは言わぬが、自分の無策、行動は棚に上げて他に責任転嫁をする。これは連日のようにニュースが伝えている。

 しかし彼ら、かっての軍人はこういった責任転嫁は一切しない。軍部の無策が自分を死に目にまで追こ

 んだなどとは絶対に言わない。むしろ自分の持分を守って生きてきたことに誇りを持っているのである。世のせい、人のせいにする前に、自分で落ちるだけ落ちて0から出発するぐらいの気概がないと駄目だよと言われているようだ。いまの日本人には、そのような「いさぎよさ」を求めても無理なのだろうか。

 平和な時代を享受し、半世紀以上も戦争に巻き込まれていないわが国。すっかり平和ボケになってし

 まったのだ。戦後、数次にわたる不景気にも立ち向かってきた経験もある。たかが経済戦争、インパールとは過酷さは比較にもならぬ。負けることに慣れてしまい、0への原点復帰を忘れたのか、といわれそうだ。

 これからはもっと女性の感覚を経営に活かさねば、絶対女性原理?です、といわれる現役会長さんもおられた。女性は戦争をしないからとのことからか。

 そうは言いながらも、ときおり孫の男の子が遊びにくるが、食事がすむと茶碗を台所へ運ぶので、それは男のすることではないと言っているんです。男子厨房に入らずを強調される。男は一旦事があれば立ち上がって家庭を、国を守らねばならない。女は家を守るべき、これが役割分担というものである。ユーモアをまじえて男の気概を語られる帰還兵もおられた。横で聞いていらっしゃるお嬢さんも苦笑い。「そんな古いことを云って」と。

 今は平和だから女性原理で経営を再考する時期なのかも知れない。これは余談としてお聞きした。

 もっともっと日本人には力があるはず。人材はいくらでもいる、若い力を結集せよ、失われてゆく日本のよき伝統をもっと大切に、幼稚な教育行政には批判の目を、いろいろのご意見をいただいた。まことにすがすがしい取材であった。ときには亡くなった戦友を思い、一瞬涙で一時話が途切れることもあった。泣くはずのない兵隊さんの友愛の情である。

 齢(よわい)80を越えられた矍鑠とされた帰還兵の皆さまに、もっと叱ってください、まだまだご意見番として後進のご指導を!とお願いしてこの稿のまとめとしたい。

 
太平洋戦争と大東亜戦争
 
 太平洋戦争のドキュメンタリー番組では必ず出てくるおなじみの「臨時ニュースを申し上げます。臨時ニュースを申し上げます。大本営陸海軍発表。12月8日(6時)、帝国陸海軍は本8日未明、西太平洋におい

 て米英軍と戦闘状態に入れり」という軍服を着た甲高い声のアナウンサーの映像。

 1941年(昭和16)12月8日ラジオで全国に放送されたことで、一般庶民は太平洋戦争の開始を知る。この4日後の12月12日、日本政府は閣議決定で今次の対米英戦は支那事変をも含め「大東亜戦争」と呼称すると発表している。本来はこの名称を使うべきだが、この稿では現在一般に普及している太平洋戦争とした。

 
インパール作戦とは
 
 ビルマは日本にとって南方各地を攻略するための拠点と位置づけられていた。日本軍は開戦間もない1942(昭和17)年2月にタイ国境を突破、3月には、イギリス領であったビルマに進攻し首都ラングーンを占領。

 5月にはビルマ全土を手中に収めた。これに対しイギリス、アメリカ軍は合同で植民地ビルマを奪回し、中国の蒋介石を支持する、いわゆる援蒋ルート(ラングーン〜ラシオ〜昆明)を確保するためインド東部から反撃に出る作戦に出た。

 日本軍は連合軍の拠点インパールを直接攻撃するインパール作戦を計画、北ビルマの奪回をもくろむ連合軍との戦闘を展開した。ここから3年7ヶ月にわたりるビルマ全域、インドのマニプール洲、雲南省までを含む広大な地域での戦闘がくり広げられた。緒戦は優勢であった日本軍も、制空権をうばわれ次第に武器や食料も不足、ジャングルの中、英軍の戦車や豊富な武器で追いやられ後退してゆく。

 結果として約33万の将兵のうち19万人は故国の土を踏むことはなかったという惨憺たる状況に終わった。

 
ビルマの地勢
 
 国土は日本の約1.8倍。東南アジアの一角、中華民国の西、インドの東、南はベンガル湾とアンダマン海に臨む。熱帯モンスーン気候であるが、南北に長い国土ゆえ暑気、雨季、乾季には地域差がある。インパール作戦中耐え難い暑さの4月、そして5月下旬になると息も苦しいぐらいの豪雨(1、2時間つづく)に見舞われるたと帰還兵は語っている。

 ビルマの中央部は広い平野であるが、東西の国境は高くけわしい山脈で、人跡未踏の密林が大地を覆っている。その間をチンドウィン、イラワジ、サルウィンの三つの大きな河が北から南に流れている。こういった地形が日本軍の行動の自由を奪ったといえる。

 敬虔な仏教徒の国でもあり、猛暑の季節にあって真っ白なパゴダや黄金のパゴダは息をのむぐらい美しかったとの話も聞いた。

 
ビルマとミャンマー
 
 現在、Union of Myanmar が正式の国名である。1962年、故ネ・ウイン大統領がビルマ式社会主義を採り政権を握る。しかし半鎖国の状態で経済は極端に悪化。1988年、軍によるクーデターで軍政が実施され、1993年にビルマからミャンマーに国名を改称した。ミャンマーの人が自分たちのことを「ムランマー」といい慣わしていることからミャンマーとなった。 

 蛇足ながら、はじめて出たミャンマー政府発行の日本語の冊子、1996年 Visit Myanmar Year(ミャンマー観光年)によると「ミャンマーの女性は保守的であるため承諾がないかぎり絶対に手を出さないこと。食事のときなどに女性にお酒を勧めないほうがいい」「人前で男女の親交を避ける。裸になることも避ける」などと書いてあり、どうもフーゾク好みの日本男性むけの説教?になっており、やや恥ずかしい気がしたものである。

 かっての「ビルマ」はバラモン教の神、ブラフマーからきており、バーマーと発音する。これは英語風なまりなので政権交代の折に変えたのである。このときに首都ラングーンもヤンゴンと改称された。アウンサンスーチー女史は著書に今もすべて「ビルマ」と表記している。 

 

お話を伺った主な方々(敬称略・記載順)
平田敏夫 宝梱包株式会社 会長 (元陸軍)
藤定伸和 (元陸軍独立有線第86中隊兵長)
中西喜次 総合開発研究所々長 (元陸軍大尉)
渕祐一 丹陽株式会社 会長 (元陸軍軍曹)
中村年男 調停委員、元ワコール塚本社長秘書、
辻 保年 医療法人緑萌会・辻病院理事長・院長 (株)松ノ木薬品会長(元陸軍中尉)
下村一郎 薬剤師 (元陸軍薬剤中尉)
桑原眞一 呉服商 (元第二機関銃中隊)

写真提供 宮井二朗、兵頭千夏、下村一郎
児童画提供 (社)日本ミャンマー友好協会

 
 今年は小泉首相の所信表明にもあった、日本とアセアン諸国の交流記念の年であり、各種行事が計画されている。ビルマ(ミャンマー)現地の大使館でも児童の作文コンテストや絵画展なども企画されている。また、外務省公認の唯一の団体である社団法人日本ミャンマー友好協会(本部:京都 支部:関東、東海、関西)では、今年の5月から7月まで日緬友好のための多彩な行事が計画されている。
失敗したヤンゴンでの野菜栽培
 
 ミャンマーでのビジネスは難し過ぎるとして、外国人ビジネスマンが続々とミャンマーを去る中、
平成元年からヤンゴンに住み、KYOKUYOエンタープライズという商社を営んでいる石塚洋介氏(58歳)は、ヤンゴンで野菜栽培ビジネスを始めようとしたことがあった。

 ヤンゴンの市場では、白菜、キャベツ、ほうれん草、春菊、ネギ、玉ネギ、大根、人参、ジャガイモ、サツマイモ、トマト、胡瓜、ナス、オクラなど野菜は豊富だが、すべての野菜は、ヤンゴンから遠い地方から運ばれてきたもので、ヤンゴン郊外の田畑で収穫されたものではない。ヤンゴン市は一年中温暖で、雨季、涼季もある。そこで石塚氏は、種を蒔く時期を工夫すれば、ヤンゴンでも野菜が収穫できるのではないか、やるのなら日本の野菜栽培にチャレンジしようと考えた。
 まず日本から野菜の種を取り寄せ、試験栽培に適した土地を探したが、ヤンゴン市近郊で野菜が作れるような肥沃な土地はほとんどなかった。石塚さんは、ヤンゴンでは野菜を作らないのではなく、作れないのだということを理解した。やっとのことで、空港近くにやっと農耕に適した土地を見つけたが遠過ぎた。そこで自宅の庭を使って試験栽培することにした。まず腐養土を買って畝を二つ作った。苗床は別に作った。二、三ケ月で収穫できる野菜が白菜であることを知り、早太郎という種類の種を蒔いた。そしてたった二日間で発芽した。

 この白菜の苗は順調に育って、本葉が二、三枚ついたとき、畝に植え直した。苗の根を痛めないように日没時を選び、、しかも苗床の土をなるべく多くつけ、一本、一本を注意深く植えた。家の門番から、日本人が百姓のまねをしてといった感じでニヤニヤと見ていた。

 だがある早朝、寝巻のまま、白菜の様子を見に行き、畝を見て思わず立ちつくした。白菜の苗が、根元から見るも無残に、何者かに食いちぎられている。すぐに門番を呼び付けたが、彼はまったく知らない分からないと言う。石塚さんは鳥の仕業かとも考えたが鳥の足跡はない。他の動物が食べた形跡もなかったが、畝の間に、乾季に珍しく、カツツムリが数匹転がっていたのを石塚さんは覚えている。

 苗を食いちぎったのは猫かも知れないと言う者もいた。しかし猫が草の葉を食べる時は、食べた物を吐く時だけだし、白菜の苗など食べないだろう。原因が分からないまま夕方になり、やっと気を取り直して白菜の苗を植え替えた。次の朝、まだ暗いうちに見に行った。

 白菜を植えた畝に近づいたとき、足元でグシャッという音がした。朝もやの中で目を凝らして足元を見ると、踏みつけたのはカタツムリだった。そして畝を見ると、今朝も5-6本の苗が食いちぎられており、その原因をあれこれ考えたが分からなかった。

 その夕方、もう一度苗を植え直し、門番に夜中に見回ってくれるように頼んでから床についた石塚さんだが、次の日、恐る恐る苗を見に行って白菜が無事であることを知ってほっとした。そこに門番がやって来て、得意そうに説明を始めた。

  「昨夜八時半と十時半に見回りをした時に、白菜に近づくカツツムリを見つけたので退治しました」という。

 カツツムリが野菜畑を食い荒らしたなどという話しを聞いたことがない石塚氏だが、苗を食い荒らした犯人に間違い無かった。乾いていると活動しないカツツムリだが、白菜の苗のために撒水していたため、行動を始めたのだ。

 この日から三日間、多くのカタツムリを門番が処理してくれたため、白菜は成長していったのだが、収穫はできなかった。白菜を植えた畝の幅が狭過ぎるために保水性が悪く、朝夕の撒水だけでは水不足が生じたのだ。せっかく玉になりかけた白菜の葉が、夕方に広がってしまい、外側から葉が腐ってしまったのだ。

 フラワービジネスを計画したこともあった。ヤンゴンの赤い粘土質の土は鍬(くわ)すら跳ね返し、花畑作りは大変だった。日本人客にもらった花の種セットの土産がこのキッカケだった。植物好きの石塚さんは、さっそくこの種を蒔いたところ、早くも三日後に芽が出た。このブレンドの種からは、日本では気候に合わせたの花が咲くはずであった。だが暑いミャンマーでは、どれも一斉に発芽した。石塚氏はどんな花が咲くのだろうかと楽しみで、仕事に出かける前の観察が日課となったが、苗が大きくならないうちに雨季が到来しスコールに打ちひしがれて全滅した。

 石塚さんが花栽培をようやく忘れかけていたある日、外出先から帰ると、「社長、日本の花が庭に咲いています」と社員のティエンゾーさんが興奮して待ち構えていた。夕暮れ時の小雨が降るの中、キンセンカが一つ咲いたのだ。異国の苛酷な気象条件や自然環境に負けずに、元気よく咲いたキンセンカに嬉しさはひとしおだった。

 「自分もこのキンセンカのようにミャンマーに根を下ろして、逞しく生き抜きたい」

 そこでキンセンカに限ってはフラワービジネスを再開する決心をした。しかし今度は、まず苗床で苗を育て、大きくなってから鉢植えしようと考えた。腐養土は、かつてヤンゴンの生ゴミが捨てられた山を探し出し、そこで有機肥料になった土を運びこの土に川砂を混ぜて、水はけが良い苗床を作った。朝夕の撒水も、人まかせにせず、自分で納得する撒きかたをした。すると四日目の朝に発芽、若草色の小さな芽が無数に出たのを見た時には、石塚さんにはやった、という満足感がこみ上げた。

 石塚さんは液肥を探して歩いたが売られておらず、しかたなく普通の肥料を買い、それを水に溶かして液肥にした。石塚さんは、毎日飲んでいる健康茶も薄めてキンセンカの苗に撒くほどだった。ところがある朝、苗床に水をやろうと思って外に出て見ると、苗床の真ん中に大きな穴があいて、キンセンカの苗はことごとくなぎ倒されていたが、苗床に「犯人」がもぐり込んだ跡はなかった。

 だが翌朝、石塚さんは犯人を見付けた。苗床に穴をあけた犯人は、こんどは大きな蛙だった。

 蛙の来襲をきっかけとして間引きした。そして植木鉢に植え替えて一ケ月後、茎も太くなって小さな蕾がつき始めた。近く花が咲くことを確信した石塚さんは、ヤンゴン日本人会員向けに、鉢植えキンセンカを販売するとチラシを作って郵送したが、注文をくれた日本人いなかった。

 ようやくキンセンカの花が咲いたが、それは小さく美しくもなかった。茎の脇から枝が伸び、中には茎が横に倒れているものもあった。「もしも日本人会から多くの注文を取った後だったなら大恥じをかくところでした」と石塚さんは思った。

 ミャンマーの暑季は摂氏四〇度もあり、暑さで日本から来た花の種がおかしくなったのではないだろうか、人間でも音を上げ怠け者になるミャンマーの暑さで、花の行儀も悪くなるのはあたりまえかも知れないと石塚さんは考えた。
そして「おまえ達、お嫁に行かなくて良かった」とキンセンカに話しかけた。

仏教修行する日本の若者
 
 先日でかけた京都では祇園などで多くの坊さんが遊んでいた。ホテルに向かう私の乗ったタクシーの運転手も、「夜遊びが終わって乗ってくる客の多くが坊さんだ」といい、坊さんは皆、風呂敷で坊主頭を隠している。
 タイの仏教の堕落も日本と似ており、丸々と太って、本来は持っているはずがない財布、しかも分厚いのを見せびらかせてサンデー・マーケットやらパンティッププラザなどで買い物している坊さんを見かけることも多い。こんな日本やタイの仏教の堕落ぶりと比べるとミャンマーはまったく異なっている。そして悪名高い軍事政権だが、仏教育成に全力を注いでいる。

 ミャンマーの国際空港であるミンガラドン空港に到着すると、空港で働く軍人を含むミャンマーの人々からきわめて愛想がよい対応を受ける。そして入国にあたって200米ドル(2,000年までは300ドルだった)を同レートの外貨兌換券であるFEC(FOREIGN EXCHANGE CERTIFICATE)に交換されられる。しかし私は言われるままに素直に両替に応じている。貧しい国に来てそれくらいの協力はしようと考えているからで、どっちみちその程度の金額はホテルの支払いなどで消えるのだから、と考えている。しかし欧米からの観光客を中心に、「なぜ両替しなくてはいけないのだ」とばかりにいつももめている。しかしミャンマーに仏教の修行に来た外国人に対してはこの強制両替は免除されている。

 ヤンゴンでは街を歩いても警官も親切であり、外国人に気を遣っている感じがありありだ。ミャンマーでは札束をプラスチックの袋に入れて運ぶ人がめだち、袋の中の札束が透けて見えているのに驚く。もし強盗にでも狙われたら、ひとたまりもない。だがこれはミャンマーの治安の良さを感じさせる面でもある。
 ヤンゴンに「仏陀の歯」が収められている大パゴダがあり、この近くに「国際仏教大学」があり、ミャンマー宗教省管轄下として仏教を教えている。

 
国際仏教大学
 約束もないまま、この大学の写真をとろうとキャンパス内に入っていったところ咎められる様子もない。それどころか、学内を歩いていた大学の事務員のボスと思えるミャンマー人が応対してくれた。同氏によると、世界の五十カ国から仏教を学ぶためにこの大学に来ているという。併設されている寮も相当立派な建物で見学させてくださった。スリランカや韓国、ネパールなどから仏教を学びに来ている若者が多かったが、全員が礼儀正しい学生だった。彼らは私も日本人で仏教徒であることを知って安心しているかのように感じた。

 同大学の授業はすべて英語で行われていた。ミャンマーに来るまでの旅費は本人の負担だが、この大学での授業料、寮費、食費などすべてが無料で全寮制。しかしミャンマー人学生は自宅から通うことに決められている。

 ヤンゴンのマハシ瞑想センターという名の寺には二〇〇一年四月現在、三人の日本人が修行中である。タクシー運転手は誰でもカバエイ・パゴダ通りにある「マハシ・ササナ・エイター」のことをよく知っており、すぐに連れて行ってくれる。この寺に近いカバエイ・パゴダ通りには、僧侶だけが入れる立派な専用病院もある。

西澤卓美さん

 西澤卓美(にしざわ・たくみ)さんは一九六六年十二月、長崎県平戸生まれ。実家はお寺ではないが、高校生時代は水泳部に属していたが、将来は出家することを決めていた。西澤家が抱えていた問題で苦労しながらも、高校を卒業後、東京でホテルのウエイターなどのサラリーマンをした。父親は二十歳の時にガンで亡くした。そして九〇年にミャンマーのこの寺に来て、出家した。兄は地元で教員をしている。九六年十一月末に東京の新宿に出来たマハシ寺院の東京支部に招かれて一時帰国したことが例外。「二度と日本の土地を踏まない人生になってもかまわない」と言う三十四歳。小説「ビルマの竪琴」に登場する水島上等兵を思い出した。日本では大学に行っていない西澤さんだが、この六月から前記の国際仏教大学の学生になった。「三年のディプロマ(卒業証書)をもらったら、再びマハシ瞑想センターに戻る予定です」という。西澤さんにも坊さんの鏡みたいな雰囲気が漂っており、手足は細く、耳が大きい。

 ミャンマーはテラワーダ仏教で、妻帯はできないが肉や魚を食することはできる。ラオスで多くの坊さんがタバコをすぱすぱ吸っていたが、ミャンマーでも少数ながらタバコを持っている坊さんを見かけた。仏陀が生きた紀元前ではタバコが無かったので、解釈によってタバコを吸うことは戒律に含まれないと解釈している。

 ヤンゴンにはもう一つの修行センターとして、「チャンミ瞑想(メデイテイション)センターがある。ここはマハシに比べて規模は小さいが、指導僧との接見時間も多く、マハシよりも規律が厳しく修行するという。若い日本人女性がこのチャンミで修行したこともあるそうだ。

天然ゴム草履(カディバ・パナ)のメーカー
 
さっそく一足オン・ミン氏からいただいた
写真後方におられる方が神様になった父親
 ほとんどのミャンマー人が履いているちょっと重い天然ゴム草履が、カディバ・パナ(カディバは布の名、パナはスリッパ)。この草履の大手メーカーがティダウィン社である。
 父親の時代から五十年続くこの工場は、隣と軒がつながった長屋の工場だったが、二〇〇〇年に全焼した。ゴムに布を貼る作業中に溶剤に引火したので木造の工場はひとたまりもなく、若い女性従業員が死んだ。そこで二〇〇一年現在では、工場周辺の空家などのスペースを借りて分業、家内工業として生産しているが、日に百足ほどを老夫婦で生産しているところもある。

 社長のオン・ミン氏は四〇歳にとどかない若手経営者。父親は仕事こそまったく引退し、黄色い僧姿でカディバ・パナ作業をただ見ている。座っている場所は、仏具で飾られていた。

 ヤンゴン中心部のボージョー・アウンサン・マーケットに販売店を構えており、「この店を訪問した日本からの女性観光客の紹介で、日本のIDプランや銀座にある「SONYプラザ」向けに二万足単位で三回輸出したこともあります」とオン・ミンさん。皮を使ったタイプのスリッパにマンダレー・マークがあるのは、オン・ミンさん一族はミャンマー第二の都市であるマンダレーの出身だからであり、材料の人造ゴムは中国からマンダレー経由で仕入れている。

一足セットあたりの工場出荷価格は百五十から六百チャット(五十円から二百円)程度。最近では赤い特別デザインの草履をタイのチェンマイや南米チリに輸出している。

(アジアジャーナリスト・ 松田 健)
URL http://www.ne.jp/asahi/asia/halohalo/
E-mail mazda@k.email.ne.jp