インド
 
ヒンドゥー語で松田健
インドの明るいイスラム教徒たち
 
  
2004年12月に 《松田健》がムンバイで撮影
インド南部 コチン2004年12月
 
 コチンは他のインドに比べてインフラ整備も格段に良く南国の雰囲気にあふれる。
      
コチンで泊まったトライデントホテルの厨房で美味い南インドコーヒーをたてる技術を無料で教わる
 
 コチンの道路も他州とは異なって整備されている 
 コチンのスパイス(香料)市場。オランダがポルトガルを追い出し1663年からコチンを占拠したなどコチンは欧州の香料を求める場所だった。
   
 
 コチンで1524年に死んだバスコダガマの墓があるポルトガルが造った聖フランシスコ教会 
この聖フランシスコ教会の近くの海に面してBrunton Boatyard と言う船着場のホテルがあるが、かなりしゃれている。海を見ながら南インドコーヒーを飲んだ。
現在は日本へも毎年大量の胡椒などが輸出されている。
ゴア
 
日本布教もしたフランシスコ・ザビエルのミイラが公開2004年12月 すぐ目の前で見ることができます。
   
インド アマダバードでの結婚式に出席
 
 2004年12月、6日間に渡るインド アマダバードでの結婚式に出席しました。この美女を射止めたのはアマダバード出身のIT技術l者のパテル君で米国でコンピュータハッカーについてのベストセラーを出版、同著は中国語、タイ語などにも翻訳されている。
  
 
アメダバード(Ahmedabad)の写真
 
   
アメダバード(Ahmedabad)は駱駝が活躍している                            
珍しい地中の建設物 アダラジ(ADALAJ)にある階段井戸(SEPWELL)
 
      
   
 
アメダバードのアシュラムロードから一歩中に入ったところにあるグジャラート州政府観光公社はやたら親切
でも州地図は20ルピー領収書付で買った。
 
凧上げが有名でパタン(PATANG)と呼ばれる凧(カイト)博物館もサルダール橋付近にある展望レストラン

コメント
インドを旅なれている筆者だが、アメダバードの空気がもっとも悪いと感じる。ムンバイよりも悪い感じ。
埃ですぐに目が痛くなってしまうので目薬が欠かせない。

 以前アメダバードに来た時には街の中のホテルに泊まったが今回はちょっと郊外の
 カルナバティ・クラブ(TGB RESORTS KARNAVATI)に1週間泊まった。
 ここだと空気が良いし広大なのでホテル内の散歩や運動、水泳などもできる。

アグラ
 
ムガール帝国のシャー・ジャハンが2万人を使って建設したインド最大の観光地であるTaj Mahal
2004年9月に創立350周年祝ったタージマナル
年に80万人の外国人と220万人のインド人が訪問している。





タージマハル観光者のメインはインド人だが 入場料は10倍の外国人の落とすカネで整備されている
 
アグラでは1台のオートリキシャに20人の学生が乗っていた
 このような可愛い少女の住む町であるアグラだが、実は数十万の売春婦がインド各地から集まってきている。
現地の新聞によると5万人もの少女を使った売春もあるという。
インド人は可愛い??
 
オールドデリーで雲助の運転手と喧嘩中
 タイなどで、日本に留学経験があるタイ人がタイに帰国後に日本嫌いになっている人を何人か知っている。だがこの数年、インドに年2回は通う中で知り合ったインドから日本に留学した人が皆、日本のことをめちゃくちゃよくいう。 かつては私自身がインド人はだいたいずる賢いし、付き合いにくい連中ではないかと感じていた。だがインドに通ううちにインド人はかわいい人々であると感じてきた。 インド人がそうですねとか肯定の返事をする時、頭をかしげる動作をする。最初、信用していないのかと不愉快になったことがあるが、今ではこれはきわめて可愛い動作であることがわかった。インドにいると見知らぬ人に見つめられていることが多いが、これもガンをつけているのではないこともわかった。
 インド人は正直だと言うと、そんなことはない、と否定されそうである。例えばインドの商店ではモノを高く売るのがきわめて上手である。しかしビジネスは汚いのが普通であり、インド人はあたりまえのことをしているのではないだろうか? アイスクリームが大好きで、夕方勤めている会社から出てきたターバンを巻いたシク教徒が道端にたむろして食べている。リキシャの運転手もアイスクリームを食べながらもいた。インド人は偉そうで付き合いにくいといった感じはない。

2輪はホンダが大人気 インドのオジサン、よく見るとかわいいところがある。
日本人全滅の恐れ
 
 日本人が海外旅行をすると「この水は飲めるのか」などと気にする人が多い。日本国内では抗菌処理を売り物にした新製品が出回っているなど、日本はまるで、菌に対して鎖国である。こんなままでは日本人は菌に弱くなっていつか絶滅してしまうと懸念している。
 インドのガンジス河では沐浴するインド人が洗濯しているすぐ横でうがいして口の中を清めていた。10億を超えるインド人はコンピュータに強いだけではなく、汚染水にも強い。
 これを見ても、菌鎖国を目指す日本がいつか滅亡するかも知れないと感じる。
 インドでは牛は聖なる動物で、決して殺してビフテキにしたりはしない。牛乳が取れなくなると管理もおそそかになり、道路に出てくる。インドの都市では牛がデーンと道路の中央に陣取っていたり、道路を集団で歩いて交通妨害している。聖なる牛さまが糞をしても皆が知らん顔である。インドの都市で街路樹に鉄製ワイヤで作ったカバーをしているが、牛が小さな樹木を食べないように保護しているのである。反対に見れば、一見天国を楽しんでいるように見える牛もひもじくしているのであり、かつて英国の歴史学者であるトインビーが食用にするためいっぱい餌を食べさせる欧米の牛とインドの牛のどちらが幸せかと問いただしたことがある。
デリー都市公社では牛を捕獲して収容施設に集める事業を進め、ニューデリーなどの一部区域では牛の姿が減ったところもあるが、それ以上の数で牛が増えているから、インド人の牛に対する認識が変わらなければ道路から牛を追放するのは焼け石に水である。所有者不明の老いた牛があまりにも多すぎ、道路は牛の大きな糞だらけである。筆者の友人であるインド人のインテリでさえ、「牛の糞は天日で乾かせば燃料になるだけではなく、家の周りの壁に貼り付けておけば電磁波公害を防ぐことができる」と信じている。
 
アーユルヴェーダ(Ayurveda)の国
 
WHO definition of health as “Health is the state of complete physical, mental and social well-being, and not merely the absence of disease or infirmity.”But Ayurveda had said it all 5000 years ago!!
 
人道的なインドの病院
 
インドの病院にはアーユルヴェーダ(Ayurveda)科が置かれてところが多い
 インドに初めて出かけた日本人のほとんどが食中りするのは、無菌状態といえる日本の清潔さに関係している。ニューデリーで同宿した日本の大学生グループが、下痢が1週間続いておさまらないと真っ青な顔をしているので「アポロ病院」に付き添った。
 受付で待っていると、すぐに名前が呼ばれ、ぞろぞろ医師の部屋に入っていくと、担当医師は携帯電話で話し中。電波が医療機器影響を与える可能性があるため、日本などの病院では禁止行為。電話を終えた先生は一人ずつ問診、血圧や脈などをとったが、「食中り」と断言して、処方箋を書いた。お礼を言って部屋を出ようとすると、先生は名刺を出し、「もし薬が効かなかったら、この携帯に電話しなさい」という。先程の電話は、病院外の患者と話していたことが判明。
病院内に24時間開いている薬局で日本同様に多くの薬をもらったが、支払いは保険もないのに全員で500円ほど。国立病院ではさらに安く、診療費は数ルピー(1ルピー約2.5円)ほどで、無料診断制度もある。
「火事や溺れる人を助けてヒーローになる機会は少ないが、簡単に英雄になれるのは臓器提供」とインドの病院で行われているパンフレットを見ながら少したった頃、名前を呼ばれた。私も付き添って診療室に入ってあたりを見回したとところ、看護婦はいないが、ベッドだけがめだつ。医師らしき先生は、携帯電話で何やらヒンドゥ語でお話し中。携帯電話の電波が医療機器影響を与える可能性があるとして日本などの病院では禁止されている行為なのだが…。
電話を終えた先生は一人ずつ問診、血圧や脈などをとったが、「食中りに間違いない」と断言し処方箋を書いた。お礼を言って部屋を出ようとすると、先生は名刺を出し、「もし薬が効かなかったら、この携帯に電話しなさい」という。先程の電話は、病院外の患者と話していたことがわかった。
 AIIMS(ALL INDIA INSTITUTE OF MEDICAL SCIENCES)という国立病院に行けば、診療費は数ルピー(一ルピー約三円)で、無料診断制度もある。
一生、洗濯を続ける人々
 
ムンバイ(ボンベイ)で
   
 

洗濯機買うよりも安い洗濯おばさんが毎日アパートにやってきて洗濯してくれる
 
炭を使ってアイロンかけする商売も繁盛
ムンバイのジャイナ寺院のご本尊
 
   
 
 ムンバイのゲート・オブ・インディアの前にあるムンバイ最高のホテルであるタージ マハル ホテル(The Taj Palace & Tower)は一泊4万円はする高級ホテル。このホテルの1階のロビーに続く回廊にそって、『マサラ・クラフト』(MASALA KRAFT)というインド料理レストランがオープンした。
 味もなかなかだが、すべての料理を乗せるお皿が葉の形をしておりしゃれている。
『ムンバイのお弁当』という意味である『ムンバイ・ティフィン』は、ベジタリアン弁当が595ルピーでノン・ベジタリアン弁当は795ルピー。大きなエビやチキンが入ったカレーが4種類とナン、ライス、しゃれたデザートがセットになっている。アイスクリームも懲りすぎて美味くない。
 
   
 ニューデリーのホテル、メトロポリタン日航)のすぐ隣にある「カーリー」。カーリーはシバ神の妻ドルガーの子で真っ赤な舌でアッカンべーしているのが特徴。中央は同ホテル6階の部屋からヒンドゥー寺方面の夕焼け
 
ニューデリーの日航ホテルの窓からの朝日
IT都市ハイデラバートにある世界最大の石仏像
 
石の街ハイデラバードには世界最大の1枚岩の仏像がある。
高さ17.5メートル、重さ350トン。
 
 ハイデラバート(Hyderabad)はHITEC(Hyderabad Information Technology Engineering Consulting)の町。ハイテク工業団地は巨大な天然石の砂漠のような場所を切り開いて建設されている。
 ハイデラバート(Hyderabad)から50キロ離れたライギルの町で1985年に作られ始めて1990年に完成し、フセインサガール湖の土手に設置された。しかし土手の崩壊で湖にいったん沈んでしまたのだが、92年に現在の湖のやや沖の小島に再建されている。ルンピニ公園から30分コースでボートが出ている。

  ハイデラバートは人口500万でその半分がイスラム教徒。インドでは珍しくハイデラバート(Hyderabad)の庶民には英語がほとんど通じない。街のシンボルがチャール・ミーナール(Char Minar)とう4つの尖塔からなる塔で、イスラム地区の真っ只中にある。同塔は1591年にクツブ・シャーヒ王朝(Qutb Shahi dynastyが建設したもの。56メートルある塔の上部まで公開されていたが、自殺者が増えたので現在は上に上ることは禁止されている。このあたりはウルドゥー語のカンバンがやたらに多い。

 電子オフィスを数十ヶ所作り、電子化されている。「Eオフィス」に行けば各種の申請、登録、税金の支払い、パスポートの申請などすべてできるが家庭とのインターネットでは接続されていない。
 ハイデラバードの街は高層ビルがない。デパートもなく、一つの個人が保有するビルがミニ商店の集まるミニデパートである。しかしモノはあふれている

 ハイデラバート(Hyderabad)のホテルは多数ある。タージマハールのような5星だけではなくビジネスホテルも多い。フセインサガール湖に面する数年前かにオープンしたVICEROYホテルはレイクビューでシングル72ドル、ダブル82ドルなど。

 銀行はシティバンクや香港上海銀行などが24時間のATMサービスも行っているので便利である。米国のコーヒーチェーンも進出している。

 食べ物は特に変わったものはないという感じだったが、「チキン・ビリアニ」という鶏の手羽先のフライドチキン1本がついたチャーハンがハイデラバートの特産というだけにうまいし、日本人の口にあう。

日系企業をターゲットに手を握るフィリピンとインドの初のソフト合弁会社がスタート
 
フィリピンセブ島で若く感じが良いインド人ビジネスマンと知り合った。セブ市に開業したばかりのフィリピンとインドの合弁会社である「シーエス・システムズ・フィリピンズ社(Ceeyes Systems Philippines Inc.)」の経営に従事しているプラサンス・カスツリ(Prasanth Kasturi B)氏である。
 
プラサンスは左の人
 プラサンス氏は親会社であるインドの「シーエス・ソフトウエア・テクノロジーズ(Ceeyes Software Technologies)」のテクニカル・マネージャーだが、現在はこのフィリピンの新合弁会社のインド側責任者。プラサンス氏は、「世界を飛び回っています。独身ですが、今後数年で当社はかなりの規模になり、現在立ち上げ中のフィリピンなどの事業も落ち着いてくると思うので、その時には定住地を決めて結婚を考えます。今は仕事だけ」と張り切っている。プラサンス氏はフィリピンのセブ島をベースとして、チェンナイ、ボンベイなどインド各地だけではなく、最近ではマレーシアやシンガポールなども飛び歩いて営業活動を展開している。
 
米国、インド、フィリピンを結ぶシーエス・ソフトウエア・テクノロジーズ
 
 ハイデラバートでローカルのソフト開発会社である「シーエス・ソフトウエア・テクノロジーズ(Ceeyes Software Technologies)」。同社は1996年1月にハイデラバート(Hyderabad)で誕生した。外国など遠隔地から来た客のための2部屋と遅くなった従業員が泊まれる6部屋もあり、ホテル同様のサービスが受けられる。ホテルを利用した他、この同社の社内ホテルも無料で泊まらせてもらった。

 ハイデラバートは人口の半分がモスレムであり、同社にもモスレムの社員も数人いる。「当社ではまったく差別はありません。従業員の実力重視だけです。採用試験では宗教やカースト(インドに残る古来の身分制度)についてはまったく尋ねません」という。同社のレストランでは菜食しか用意しないため、豚を食べないモスレムの社員も安心して食べることができる。インドではまだ停電も多いため、同社では大型のUPS(無停電電源システム)を完備している。
同社のビジネスはLAN関係のデザイン、同データスイッチの開発、Eコマース関連を中心としたソフトウエア・ソリューション、コーディング(プログラム)、高速ASIC、各種ソフトのテスト、コンピュータ教育向けのCD・ROM製作、アニメ(デジタル・イメージング)やテレビ番組を含む動画のデザインと製作などと幅広い。

 オフィスの男女別のトイレや喫煙所の入り口方向などを示す漫画のポスターがあちこちに張られていた。これは同社のアニメ部のデザイナーである地元出身のラジュ氏(Mr EvrmRaju)が描いたもので、同氏の漫画は2001年にルーマニアで開かれた「世界漫画コンテスト」で入賞している。また、デザイン前のモデル(模型)を製造する若手もおり、他のアジアで多いデザインのコピーは同社ではまったくなく、「当社のデザインはすべてオリジナル」に徹していた。

 光通信の遅れで経営悪化、2001年には古河電工が光ファイバー部門を買収することになった米国のルーセント(Lucent)テクノロジーズ社。シーエス・ソフトウエア・テクノロジーズでは、この米国を代表するベル研究所と一体の関係にあるこのルーセント社から、インターネットでネットワークの反応を早める「イミネット・ウエッブ・キャッシェ(IMMINET WEB CACHE)の製造販売権をこのほど取得した。シーエス・ソフトウエア・テクノロジーズ社が最も力を注いでいる部門の1つである電子商取引(Eコマース)事業の一部としてこの装置の世界販売に力を注ぐ方針。

 このように、インド・米国・フィリピンで操業するシーエス・グループを率いるスリ・チャガンティ(Sri Changanty)氏は40歳で、ほとんどは米国のサンホセにおり、2ヶ月に1回ほどの割りでハイデラバートに来る。サンホセでスリ・チャガンティ氏が経営している米国のシーエスの従業員数は12人だが、NEC関係者とホロンテックという別会社も米国で経営している。

 シーエス社では当初はNEC、住友データコムという日本の仕事を1年間した経験があるためか、ハイデラバートの社内の図書館には日本語の辞書などがずらりと並んでいた。当時、日本のユーザーの担当で現在グループリダーのC・クリストファー氏はクリスチャン。「日本に行ったことはありません。ハイデラバートの大学で日本語を学びました。漢字はだいたい1,000ほどわかります。コンピュータの専門用語は英語ですので日本向けの仕事の窓口を務めています」と日本語で言う。

 インドのシーエス・ソフトウエア・テクノロジーズの社長はラヴィ・チャガンティ(Ravi S Changanty)氏で38歳。サンホセにあるシーエス・システムズ社のスリ・チャガンティ社長は兄にあたる。インドでの従業員は175人だが、内135人がソフト開発のエンジニアで従業員のうちの70%がハイデラバートの出身者で、女性のエンジニアも10人ほどいる。

 
フィリピンに続き来年は中国へも進出
 
フィリピンのセブ島に2002年3月からスタートした「シーエス・システムズ・フィリピンズ社(Ceeyes Systems Philippines Inc.)」では、「フィリピンで各種の許認可をすぐに受けるにはローカルの方がよい」と判断、フィリピン出身で米国市民権も得ているマイク・ウイ(Mike Uy)氏が副社長としてシーエス側との双方が50%対50%出資して設立している。セブ島に進出しているNECのソフト開発部門(現在は別会社になっている)にいたマイク・ウイ氏がいたことが設立のきっかけ。インドのというマイク・ウイ氏は中国系フィリピン人でこれまでに米国籍を取得している。

 セブ島での新会社はインド人1人と5人のフィリピン人でこの3月に立ち上げたが、近く6人のインド人がセブ島に赴任する。さらに近く4,5人のフィリピン人を新規採用するため、15人ほどの陣容になる。

インドのシーエス社からフィリピンのセブ島に2002年6月からフィリピンに赴任した6人のインド人の中で紅一点のプージャ・サンジさん(Puja Sambhi)

 プージャ・サンジさんはフィリピンのセブへの出発前に、「風光明媚な島なので楽しみ。インドが得意とするITビジネスは国の囲いがないインターナショナルなものになっているので頑張りたい」と抱負を語った。プージャ・サンジさんは公務員を父に持ち、ニューデリー出身だがハイデラバート(Hyderabad)で同社を知って1年前にハイデラバートのシーエスに入社している。

セブ島のシーエス社のパートナーであるマイク・ウイ氏が中国語ができるため、この言葉上の能力も使って、中国進出を2003年に想定して準備も進めている。まず広東省シンセン市に進出、さらに北京にも出る。

 
日本企業も驚く従業員への福利厚生を整備
 
 「シーエス・ソフトウエア・テクノロジーズ」の本社は、現ハイデラバート国際空港からは町の反対側にあるが、将来は近くに新空港ができることになっている。ローカルの工業地区の一角にあり、インドの通貨(コイン)を鋳造する造幣局の工場と壁を隔てている。現在の4階建ての本社は将来は上部にさらに高層階のビルとして増設できるように設計されている。そして広大な用地の一部をマンゴー畑にしている。マンゴーが実ると、家族への土産として従業員に持ち帰ってもらうことにしている。
 
本社ビル手前のマンゴー園のマンゴーは従業員に無料で配る
 
 タイムカード付のフレックスタイムの勤務より進んでおり、遅刻も早退も自由。しかし当初に決めた納期が守ることが条件。月に一回は正面玄関前で勤務時間終了直後に社内バーティを開催している他、プロジェクトのチームごとにそのプロジェクト開始の前後に会社負担のパーティを開く。

 シーエス社の月給は6,000から5万ルピー。「この会社の自由な雰囲気が気にいっています。なるべく長く勤めたい」とカフェテリアであるソフト・エンジニアが言った。彼らの仕事場であるキュービクル(パーティションで区切られた仕事部屋)」は、一般的なコンピュータソフト会社で見かけるケースの3倍の6フィート四方ある。大手企業でもだいたいは3×4フィート程度の会社が多い。また同社のキュービクルは使い易く設計されており、開発チームの他の2人がやって来て本人との3人がキュービクル内で座って話しができる。この部屋やオフィスのデザインを担当する専門社員も抱えている。

 勤務時間は午前9時半から午後6時。会社のバスが朝と夕方に市内を巡回して社員をピックアップしている、バスが9時15分頃に到着するが、会社に到着してから朝食を摂る社員も多い。午後1時から2時まではランチタイムで、1回の食事が10ルピー。その使用回数分が給与から差し引かれる。夜食は無料。食堂は朝食から夕食までいつでも利用できるが、半額を会社側が補助している。

 ラヴィ・チャガンティ社長の社長室は外部からは見えない部屋だが、スモーカーの同社長が喫煙するときには必ずビルの外に設けられている喫煙コーナーに出向いて吸っていた。ライターを持たない社員の便宜を図るため、会社の電線からニクロム線を引いただけであるが、無料ライターも喫煙室に同社長の考案として設置されている。

 ラヴィ・チャガンティ社長(青シャツ)はひんぱんにオフィスを歩いてエンジニア達と問題点を話し合っている。
バナラシで修行?
 
 バーナーラシ訪問は、数多くの写真で見てきた聖なるガンガ(ガンジス河)での沐浴だった。バーナーラシはデリーとカルカッタの中間。ヒンドゥー教の破壊神であるシバが治めた町だと信じられ、ガンガに流されることで輪廻からの解脱ができるとヒンドゥー教徒は信じている。
 
ガンガ(ガンジス河)で沐浴

    
 
インドの聖地巡業記
 
 アジアでは貧窮と富裕がまじかに見える。タイのお寺に行けば遺体を焼いているのが見える。フィリピンでは、タクシーの運転手が「あ、サンタマリアだ」と言うことが多い。その方向を見ると、棺に入れられた遺体が道路に置かれている。なかでもインドのバーナーラシでは死と生が一体。
 ニューデリーでは道路の中央で多数たむろしていた「野良牛」を保護、専用老牛施設に送り込む活動がある程度は功をなしたかのようだったが、このごろ再び牛たちがもとの道路に戻ってきた。ニューデリーからバンコクにつくとタイはなんてきれいな街だろうと感じるほど、インドのゴミは恐ろしい量として街にたまっている。

 ニューデリーの冬は毛布にくるまる寒さだが、六月末までは夜も四十度Cを超える乾期だが、湿度は低いので、日本の梅雨よりはましである。ニューデリーにあるコンピュータ・ソフト開発の会社で、空いている机を借りて仕事しているが、かなりハッピーな気分である。インドの優秀な若いコンピュータ・ソフト技術者に取り囲まれて仕事しているからだけではない。今回、ヒンドゥーの最大の聖地であるバーナーラシに出かけ、私なりの「修行」を無事に終えたばかりだったからである。バーナーラシからニューデリーにもどった翌週には今度はパキスタン国境のアムリッツアにでかけ、ここも世界をまたにかけて活躍しているシク教徒にとってのメッカであるゴールデン・テンプルに一人旅して現地のインド人の友人が何人かできたからである。この日系コンピュータ・ソフト開発会社にはシク教徒のエンジニアもいる。

 ヒンドゥー語のバーナーラシは英語でベナレス。この数年間に親しくなって、今、私の周りにいる優秀な若いインド人達は、私のパソコンで整理中のバーナーラシでとったデジタル写真を見ながら、「ホーリーなところへよくぞ行ってくれた」と心から喜んでいる。

 バーナーラシ(ベナレス)のガート(階段の沐浴場)については、三島由紀夫の最後の小説「豊饒の海」を書いたより前から知っていた。九五年頃に放映された故・遠藤周作氏原作の映画「深い河」では、秋吉久美子がこのバーナーラシでの沐浴場面があるそうだが、私は見ていない。だが、バーナーラシの人には、日本でこのガートが有名であることを知る人は多い。今回、日本に帰国後、サンデー毎日の6月18日号において、NHKの人間講座の収録で最近バーナーラシを訪問した尼僧で作家の瀬戸内寂聴さんのインタビュー記事を見つけた。同記事で瀬戸内さんは、「三島由紀夫や遠藤周作もよう入らなかった川」での沐浴体験を語っていた。「何千年も前から、何百億、何千億の人たちが、ガンジスに祈りを捧げることで、川が聖なる存在になったのよ。人間の祈りが聖なるものをつくるんですよ」とガンジス河からパワーをもらった経験を瀬戸内さんは語っていた。

 私のバーナーラシ訪問の目的も、数多く写真で見た聖なるガンガ(ガンジス河)で沐浴することだった。バーナーラシはデリーとカルカッタの中間。ヒンドゥー教の破壊神であるシバが治めた町だと信じられ、ガンガに流されることで輪廻からの解脱ができるとヒンドゥー教徒は信じている。

 
バナラシでの沐浴後に
 
 ニューデリーから汽車ではタージマハールなどで有名なアグラを通って十時間もかかるので、航空機ででかけた。ニューデリーでコンピュータ・ソフト開発会社の若手社長を務める畏友のT氏と二人で、五月二十八日、日曜日の午後バーナーラシに到着した。バーナーラシでは最高のホテルであるタージにチェックインしてすぐ、翌早朝の沐浴に備えた下見に行った。日曜のことで、夕刻のガンガを見るため、イスラム教徒の家族などでガートは人混みが激しかった。といっても、インドはどこも人ごみだが。

 ガートが近づくにつれ、日本語で話しかけてくるインド人の多さに驚いた。野菜を売る露天商も「やすい」「おいしい」と呼びかけてくる。一から十まで、枚数を正確な日本語で発音しながら絵はがき売る少年のしつこさにまいった。さらには、麻薬をやらないかとか、船の上で怪しげなマッサージをしないかとか、怖そうな呼び込みを日本語で言ってくるインド人の多いことは予想外のことで、驚いた。日本のバックパッカーの若者が多いとは考えていたが、バーナーラシに滞在した三日間に欧米観光客は多数見かけたが、日本の観光客は一件だけ、バックパッカーの日本人は数日の間にたった1人も見かけなかった。

 すぐ近くにあるガートは、写真で見たことが多い死者が最後の沐浴をするのがマニカルニカ・ガートである。強烈な印象が残っていた写真で見た焼き場がすぐ目の前にあった。いくつかの死体が荼毘にふされている。沐浴場からたった百メートル程しか離れていないところにこの死者を焼くガートがあり、そこには次々と遺体が運ばれてくる。その前の河には焼くための木を満載した船がいっぱい待機している。近くまでトラックで運ばれて、船に積み替えるという。

 赤い布で覆われた遺体が竹の担架に乗せられて、遺体を焼く木を組んだ上に次々と置かれる。遺体をとり囲んでいる遺族の数人が大声で泣いている。すぐ前、女性の遺体の前で泣いているのは夫だろうか。遺体を包んだ布の上に粉を巻きながら、時計周りに遺体を回って最後のお別れをしてから火がついた藁が放り込まれると、火はあっという間に広がって、三時間程の後には灰と化す。

 火葬の「観光」慣れしているインド人がカメラをカバンから取り出してさえいないのに、遺体処理のカースト達が「写真は撮るな」という。私は遺体の写真など撮る意図などもうとうないのだが、写真撮影が禁止という一方、火葬場近くにはこの火葬の絵葉書を売る少年が多いのはどういうことなのだ。

 遺体を燃やす木にが問題である。一つの遺体を焼くために必要な木の量は三千ルピーもする。だから、金持ちしかそのような量の乾燥木を用意することはできない。そこで金持ちの遺体は灰になるが、貧乏人の遺体を燃やす木の量はぐっと少なくなり、肉のまま河に流される部分が多くなる。赤ちゃんや五歳までの子供や聖者などは焼かずに河に流す習慣になっているのは、罪を犯していないからである。

 次々を運ばれてくる遺体は竹でできた担架に乗せられて布に包まれている。火がつけられた遺体を一緒に燃やす担架の竹をつかって遺体をつついて燃えやすくしている。焼いているすぐ裏には、死を待つ人を収容する建物があり、老人と病人六十人ほどが死と対峙していた。人口五十万程度のバーナーラシの市民だけではなく、ここで荼毘にふされてガンガに流されることを最大の喜びと考えるヒンドゥー教徒が人生の最後を迎えるためにインド各地から来ている。案内してくれたインド人によると、よく焼いても心臓などの臓器が残るがそのままガンガに流す。

 遺体処理はインドの森林の木を減らす環境破壊にもなっている。インド北部で航空機に乗ると、晴れた日でもほとんどスモッグが下界を覆っている。この砂塵の原因も森の減少に関係していると思う。

 バーナーラシに到着した夕刻、ガートの下見に出かけた。その後、近くのゴールデンテンプルというヒンドゥー寺院に行ってみた。狭くて両側に店が並ぶ参道は日本と似ていると感じた。ゴールデンテンプルにスリッパを脱いで入ろうとすると、内部にはヒンドゥー教徒だけだと強く制止され、裏手の異教徒用の見学場所に案内された。そこから見ると隣はなんとイスラム寺院。そしてあたりには銃を構えた警官が二十四時間体制でイスラムとヒンドゥーの対立に備えていた。

 
翌朝。
 
 昨日使ったリキシャ(往復とガートでの待ち時間を含めて五十ルピー、百円強)でガートに出かけた。

 早朝の河はもっときれいだろうと前日の夕方に考えたのだが、どうみても水はきれいでなく、ゴミも多い。沐浴をためらったのは、沐浴中で中流に向かって手をあわせて拝んでいるインド人たちのすぐ横では、サリーなどの洗濯がおこなわれおり、石鹸を使ってやたら熱心に体を洗っているおじさんに対して誰も注意しない。石鹸を持った老婆が気味の悪い笑みを浮かべて、何やら私に話しかけてきた。老婆の手などが溶けてないのは、おそらく らい病 だ。正直ぞっとした。

 決心していた沐浴をためらわせたのは、乾期で、河の水が流れている感じがないためゴミが流れ去らないでいることだった。写真で見たことがある沐浴はガート(階段)で写されたものがほとんどだが、この日は、階段の最下段より下までしか河の水がない。ジェット機で一時間以上も上流の汚染の記憶も蘇ってきた。首都デリーや、アグラのタージマハールの横を流れているヤムナ河はガンガの上流にあたる。これら上流の億単位の人や牛などの動物のし尿すべて流れ込んでいる。

 バーナーラシに来る前にニューデリーのインドの知識人とガンガ(ガンジス河)の水質の話をした時、その知識人もかつてここで沐浴をしたことを誇りにし、「ヒマラヤのミネラル水なのだから、菌はすべてなくなる」と解釈していてはいた。日本の河川のケミカルやダイオキシンの汚染に比べたらガンジス河の汚染はないに近い、と言っていた日本のドクターが言っていたことも思いだした。そして私は、ついに周りのインド人にせきたてられるようにぬるい河に入った。

 河の中でヒンドゥー教徒のインド人達がわっと珍しがって私を取り囲んだ。なぜだかわからないが、なにか懐かしいことをしているという感覚に陥った。ヒンドゥー教徒の真似をして河で合掌の祈りをあっという間にすませると、周りのインド人たちが増えた。やはり外人の沐浴はまだ珍しいのだろう。そして聖なる河の中の私を大歓迎してくれる。調子にのった私は水泳には自信があるので、ガンガの中央部へと泳ぎ始めた。だが、中央は流れが速いから危ないというようなことを言いながら周りのインド人達が制止した。インド人は水泳が得意ではないからではないかと思ったがその忠告に従って階段に戻った。後に聞いたところによると、実際にガンガの中央部で流され、亡くなった早稲田大学の学生もいたという。

 バーナーラシで宿泊したホテルは5星ホテルのタージ(TAJ GANGES)。タタ財閥のホテル・タージは、二重窓の静かで大きな部屋、広いプール付で花に囲まれた大きな庭があり、ダウンタウンの喧騒を離している。正直に言うと、ガートのあたりの雰囲気に比べて天国と地獄の差だ。

 ガンガでは、プラスチック容器に汲んだ聖なる水を持ち帰る人が多く、日本の温泉のように真ちゅうの入れ物に入れて水を売る商売も見かけた。日本の温泉に行くと、その効能を信じて上がり湯などを使わない私だが、今回のガンガでの沐浴後にタージ・ホテルに戻った私はシャワーでガンガの聖なる水を一滴も残らないように洗い流してしまった。

 ヒンドゥー教徒にはなかなかなれるものではない。

 夕刻、ホテルから再びガンガに向かい、ガートとは反対側にある旧藩主の城であるラームナガル城に出かけた。乾期の今はガンガを渡る簡易橋で行ける。そのちょっと上流には大きな近代的な橋も見える。簡易橋はタンクローリー車で使われていたと思われる鉄製タンクを百個も浮かばせてその上に木と鉄の板を貼っている。そこからのバーナーラシの夕暮れの眺めが抜群だった。

 
ブッダが初説法したサールナート
 
 バーナーラシ中心部から十キロほどのところ、ブッダが悟をひらいた後で初めて説法をしたサールナートにでかけた。ホテル・タージのフロントはここに泊まる日本人の全員がサールナートに行くと嘘を言う。サールナートにでは六世紀に建てられたという巨大なストゥパ(仏塔)
を中心に遺跡が広がっている。一帯の公園はきわめて良い雰囲気があり、一日ここで昼寝(瞑想)でもしたい気分にもなる。東京タワーとロシア大使館の間の交差点にノヴァとかいう風変わりなビルがある。私が好きなビルだが、このストゥパからデザインを得たのではないかと思われる程に似ていた。

 サールナートにはタイのプッタモントンに仏教を伝えたことで知られるアショカ王が建てた石の円柱が残っている。また、近くには日本寺やミャンマー寺、チベット寺などもあり活発に活動しているようだった。

 ガンガでの沐浴をしながら日本の禊(みそぎ)に通じると思った。

 「けがれ」を水で清める儀式は日本の神道にある。だが、日本の神社入り口にある水はあまりにも清潔である。神社で参拝者が手を洗い、口を清める水がある建物を神道で手水舎(てみずや)という。

 線香をあげ、鈴を鳴らすのもヒンドゥー教徒も同じだが、インドが元祖であることは間違いない。仏教の発祥地がインドで、ヒンズー教(もとはバラモン教)や土俗信仰が混ざって日本の仏教に影響を及ぼしている。飾り付けの基本も、「お香」「お花」「灯明(ろうそく)」の3点であるのは仏教に共通している。仏前で合掌し、ろうそく(一対)に灯をつけ、そしてお線香を点火する。そして「今からお参りいたします」の意をあらわすために、お鈴(おりん)を1回か2回鳴らす。「りん」、「鉦(かね)を打つ」ともいう。また、お線香は仏前で香を1〜3本の供えて拝む(線香をつける)。日本の仏教とまったく同じだ。

メトロが動き出したニューデリー
 
   
 
 入り口で可愛いプラスチック製のコインを買いそれを読み取らせて入場し出るときはコインを投げ込むとゲートが開く。距離によって4−7ルピーと公共バスよりも安い値段を設定しているので裕福そうには見えない一般庶民でも休日に家族連れで試乗に来ていた。ただし入り口では厳重な警備があり一人一人がまるで国際線並みにチェックされる。写真を撮っていたらインド人の駅員が飛んできてダメだとしかられたが、その理由はテロg対策だとのこと。しかし他の警備員の前で堂々と写真を撮っていても何とも言われないこともあった。駅のインド人の全員が入り口のコイン切符の機械なども含めて全て日本製だと言うのだが、日本が大きく援助しているのは事実だが、デザインからして装置すべてが日本製とは思えなかった。
 
   
 
   
現状の路線計画                               
 
延長工事が進むニューデリー
AMRITSAR
 
シク教徒のメッカ、アムリッツア(AMRITSAR)での心温まる歓迎
 
   
 
 仕事と関係ない旅として最も記憶に残る私の一人旅は、ニューデリーからパキスタン国境で、ラホールが近いアムリッツア(AMRITSAR)への旅。

 カシミールにも近く、すなわちヒマラヤも近い位置にあるのでニューデリーに比べかなり涼しいアムリッツアは、ニューデリーから北北西へ、汽車の切符に記されている数字ではニューデリーから四百五十二キロで、カナダ等と結ぶ航空機が運行されている国際空港もある。

 アムリッツアのレストランで知り合ったシク教徒によると、アムリッツアの人口は二百万人ほどで市の中心部では三割程がシク教徒で七割がヒンドゥー教徒などだが、郊外では逆に七割がシクで三割がヒンドゥー。

 インドでは珍しく、チップをねだられるといったことがアムリッツアでは一回もなく、人々はものすごく親切でしかも宗教を押し付けるということも一回もなかった。ゴールデン・テンプルのお参りの出口ではおいしいオヤツが異教徒にも無料で振舞われる。寺の出口でシク教をもっと知ろうと本を購入したが、購入したつもりが支払いは受け取ってくれない。「この本はゴールデン・テンプルやシク教の宣伝です。そのような本を売って金をとるようなことはしません」といっぱい新しい本をくれた。寺院やレストランなどで多数のシク教徒たちと話しができ、この写真をシクの親子にEメールしたらすぐ礼状が届いた。

 アムリッツアでは、こんな感じがよいシク教徒なのに、筆者が毎月いるタイのバンコクでは柄が悪いシクばかりなのはどうしてなのだろう。

 タイのバンコクに住む日本人にとってのシク教徒のイメージはガードマンといったところだが、インドのシク教徒にはコンピュータ・ソフトの分野で活躍するエンジニアも増えている。インドのパンジャブ州(PUNJAB)のアムリッツアは、頭にターバンを巻いているあのシク教徒の総本山であるゴールデン・テンプルがある街として知られている。働き者が多いシク教徒は、このアムリッツアを中心とするパンジャブ州から世界各地に進出している。

 20年程前、この地の独立を目指したシク教徒の動きを、故インディラ・ガンジー政権が弾圧、多数の死傷者が出た。当時、この弾圧から逃れるため、シク教徒にとってタブーである刃を使って散髪し、髭を剃って弾圧から逃げのびたという。70年代にこのゴールデン・テンプルを攻撃したインディラ・ガンジーは、後にシク過激派によるテロに狙われ続けたあげく1984年にシクのボディガードに暗殺された。バンコクに住む日本人にはシク教徒はガードマンといったイメージが強いが、インドのシク教徒にはコンピュータ・ソフトの分野で活躍するエンジニアも増えている。アムリッツアには、頭にターバンを巻いているシク教徒の総本山であるゴールデンテンプルがある。シク教徒はこのアムリッツアとこの街が属するパンジャブ州から世界各地に進出している。

 シク教徒は強そうな男性が多いところから、東南アジアでは運転手や銃を持った警備員なども目立つ。近年、オートバイのヘルメット着用はインドでも義務付けられたが、シク教徒だけはターバンを取るわけにはいかないと反発、シク教徒だけは無着用が認められた。

 
   
 
 異教徒もゴールデン・テンプル中央部にある「不死の池」の中心の聖堂の内部に自由に入ることができる。寺院には四つの方向に入り口もあり、開かれた寺院だと言える。

 寺院に入るとまず水で手足を清め、時計周りに池を一周する。池には黒い鯉が多数泳いでいる。イスラム風の建物も内部にあり、池ではバーナーラシでのヒンドゥー教徒のように、シク教徒が沐浴している。これらを見ても、シク教がイスラムとヒンドゥーのミックスであることが理解できる。

 ヒンドゥー教徒がヒンドゥー寺院に行く時には、神にささげる食べ物を持参する信者が多いが、このゴールデン・テンプルには神像はない(シクは経典のみ)にもかかわらず、捧げモノを持ってお参りするシク教徒が多い。表敬礼拝を済ませて外に出ると、小麦粉とピーナツで作ったという黄色いお菓子を素手でちぎってくれたが、無料だった。また寺院内で薦められるまま、水を飲んだ。他にもかなり現地化した食べ物を口にしても腹を壊さなくなっている私のお腹は、インドの菌に慣れてきたのだろう。

 アムリッツアはまったく宗教の街。そしてインドの街としてかなり落ち着いた感じをうける。郊外にやや高級ホテルであるモハン・インターナショナルホテル等があるようだが、私はアムリッツア駅に近い「ホテル・エアライン」という八百ルピーほどの安ホテルに宿泊した。このホテルもシク教徒客がほとんどで外国人だからといって料金などの差別はまったくなかった。アムリッツアは一五七七年にシク教のグルであるグル・ラムダス(GURU RAMDAS)により命名された名前だと、ゴールデン・テンプルの外の本屋で得た本に書いてあった。そのシクの案内書を買おうとしたが、本屋のおじさんは、この本は無料だとして金を受け取らない。

 写真を撮り忘れたことがあったので、運転手に頼んで、パキスタン国境を訪問した後で再度、同寺院に連れて行ってもらった。そして寺の入り口でモノ売りをしていたシク教徒のおじさんに、「十分だけこのスリッパを預かって欲しい」と十ルピーを渡してお願いしたが、「私は金など受け取れない。向こうの(無料の)履きのも預かり所に行きなさい」と叱られてしまったなど、堅い人が多い。だが、若いシク教徒の中には絶対に禁煙であるはずなのに、こっそりタバコを吸う人もいるし(シク教徒自信が教えてくれた)、簡易ターバンしか巻かない進歩派?も増えている。

 
   
 
 ホテルのすぐそばに「クリスタル」という地元で有名なレストランがあった。ここでは中華、インド料理ともにうまく、来ていた客が日本人が珍しいからだろうか、つぎつぎに私に話しかけてくる。ネパールからの出稼ぎの人が多く、彼らは日本人とそう変わらない顔つきなのにどうして私がネパールでないとわかるのだろう。日本人とそっくりのネパール人のボーイ(写真上の右)のサービスがよかったのでチップをはずんだ。

 ネパールといえば、一九一九年、ゴールデン・テンプルに近いジャリワンワラ・バーグ(公園)で、英国統治の集会禁止令に反抗する民衆に英国の傭兵であるネパールのグルカ兵が発砲、多数のアムリッツア人が殺害される惨事があった。

 このレストランで注文したアフガンニスタン料理はかなりうまいものだった。バンコクなどで食べたアフガン料理とはえらい差である。「クリスタル」レストランは交差点にあり、近くにはローカルのファーストフード店が多く、インド人が赤い中華ソバなどを店頭で作っており、どこもかなりの人気だった。

パキスタン国境へ
 
 往復400ルピーで、アムリッツア中心部から30キロほど離れたパキスタン国境に行った。毎日夕方七時の国旗を降ろす儀式がインドとパキスタン両国の国境警備隊により行われているが、インドはアムリッツアから、またパキスタンはラホールから多数の見学者が来てこの儀式を見守る。写真撮影も問題ないが、双方の警備隊が相手を威嚇しながらの儀式はものすごい迫力。この儀式やこの国境ゲートを通過する国際バスの運行は両国の関係が悪化するたびに中断されてきた。この国境に近く、国境に向かう道路の左手に「マスザワ・シルク」という看板があがる工場があり、名前からして日系企業ではないかと感じたが、それを確認する時間はなかった。アムリッツアに滞在して柔道を教えている日本人がいるとも聞いた。
 
   
 
 アムリッツア見学を終えてニューデリー行きの汽車(寝台車)に乗った。私の車両を見つけて案内してくれた靴磨きの男の子は、頭がよさそうだった。汽車の入り口にはコンピュータから打ち出されたすべての乗客の姓名が張り出されている。この靴磨き少年(写真の黄色のシャツの子)
はかなり離れたところから私の名をみつけてくれた。乗り込んだらすぐに動き出した汽車の中の私をホームから見送ってくれた。聡明そうなだけではなく目もいいこの少年の笑顔は今でも忘れられない。
 
 汽車内で泥棒をした人は一千ルピーの罰金か、六カ月の監獄行きかその両方の刑であるとの警告がヒンドゥー語と英語で張られている。汽車の中で弁当を買ったボーイによると、さっきムンバイ(ボンベイ)から三十二時間走ってアムリッツアに到着したばかりなのに、再びムンバイに向かっての折り返し便がこの汽車で「一回が六十四時間乗務」だという。一等室の乗客も良い感じの乗客ばかりの感じだ。
 しかし平気でゴミを床や汽車の乗車口から線路に投げ出している。とりわけインドの鉄道はゴミだらけであり、プラットフォーム下からはひどい異臭が舞いあがってきた。
 
   
アムリッツア駅構内で
ハイデラバートに世界最大の石仏
 
      
 
 ハイデラバードは石の街。世界最大の1枚岩の仏像。高さ17.5メートル、重さ350トン。
 ハイデラバート(Hyderabad)はHITEC(Hyderabad Information Technology Engineering Consulting)の町。ハイテク工業団地は巨大な天然石の砂漠のような場所を切り開いて建設されている。

 ハイデラバート(Hyderabad)から50キロ離れたライギルの町で1985年に作られ始めて1990年に完成し、フセインサガール湖の土手に設置された。しかし土手の崩壊で湖にいったん沈んでしまたのだが、92年に現在の湖のやや沖の小島に再建されている。ルンピニ公園から30分コースでボートが出ている。

 インドでは珍しくハイデラバート(Hyderabad)の庶民に英語がほとんど通じない。街のシンボルがチャール・ミーナール(Char Minar)とう4つの尖塔からなる塔で、イスラム地区の真っ只中にある。同塔は1591年にクツブ・シャーヒ王朝(Qutb Shahi dynastyが建設したもの。56メートルある塔の上部まで公開されていたが、自殺者が増えたので現在は上に上ることは禁止されている。このあたりはウルドゥー語のカンバンがやたらに多い。

 電子オフィスを数十ヶ所作り、電子化されている。「Eオフィス」に行けば各種の申請、登録、税金の支払い、パスポートの申請などすべてできるが家庭とのインターネットでは接続されていない。
 ハイデラバードの街は高層ビルがない。デパートもなく、一つの個人が保有するビルがミニ商店の集まるミニデパートである。しかしモノはあふれている

 ハイデラバート(Hyderabad)のホテルは多数ある。タージマハールのような5星だけではなくビジネスホテルも多い。フセインサガール湖に面する数年前かにオープンしたVICEROYホテルはレイクビューでシングル72ドル、ダブル82ドルなど。

 銀行はシティバンクや香港上海銀行などが24時間のATMサービスも行っているので便利である。米国のコーヒーチェーンも進出している。

 食べ物は特に変わったものはないという感じだったが、「チキン・ビリアニ」という鶏の手羽先のフライドチキン1本がついたチャーハンがハイデラバートの特産というだけにうまいし、日本人の口にあう。

 
ハイデラバードのソフトエンジニア
インドの新聞社を訪問
 
 ヒンドゥスタンタイムスと競争するタイムズオブインディアの本社。
 編集局はなかなかの活気でかつて筆者が勤めていた新聞社よりもすごい。
 編集作業は6年前からすべてコンピュータ処理。入り口では夕方までは訪問者全員の名がコンピュータにインプットされ(写真中央)夕方からは警備員の指導で分厚いノートに手書きで名前を書かないと入れない。
 
   
『決断が遅い日本企業が相手では大変でしょう』と
インド人から慰められているソナ・グループのカプール会長
 
 ソナ(SONA)グループは、光洋精工と組んだステアリング生産を始めとして、ソミック石川(浜松市)、三菱マテリアル(桶川製作所)など、日系企業との合弁工場を相次ぎ成功させてきた。同グループ会長であるカプールさん(DR SURINDER KAPUR)にニューデリーの本社で単独インタビューしたが、さらに日本企業との合弁生産をインド各地で増やすとともに、近く日系企業向けバックオフィスなどでIT(情報技術)産業に進出することを明らかにした。同氏の家業は宝飾品で親族がまだこの商売を続けているため、社名の「ソナ」はヒンドゥー語でゴールド(金)を意味する。一九四五年、ニューデリー出身。米国のミシガン州立大学に留学して、エンジニアリング部門で修士、博士号を取得。インドに戻ってからムンバイ(ボンベイ)の現在も操業しているバハラット(BHARAD)ギアというインドの歯車メーカーに就職した。十八年間に渡って生産部門のトップとして働いた後に独立した。
 
――日本企業のインド投資は出遅れていると言われます。どう思いますか?

 『決断が遅い日本企業が相手では大変でしょう』と、いつもインド人のビジネスマンから同情されている。しかし、日本企業の行動が遅いのはリスク調査のためであり、一旦進出した限りは末永く操業を続けるという決意からくる遅さだと弁護している。

――しかしソナ・グループが活躍すればする程、日本で産業空洞化が進みますね。

 絶対そう思わない。日本企業は、より付加価値を高めた製品を作り、デザイン力を強化するなどの新開発ができる力のある国だ。日本は原料をすべて海外から輸入しているのに経済発展が達成できた世界唯一の国。何でも日本の国内で作る時代は終わり、人件費などのコストを要する生産は競争力があるインドに任せるべきです。日本はもっと自信を持って先を走ってもらいたい。

――最近設立された、初めて日本企業との合弁ではない「THREEソリューション社」が狙っているものは何ですか?

 社名の「3S」とは、スピード、スピード、スピードの意味。スイスとドイツの自動車部品会社からソフト関係の受注ができたことが、この会社を設立したきっかけだ。今後はIT産業が最も延びる時代であることは間違いなく、ソナ・グループも時代に取り残されないようにこの分野に進出した。狙いは日本企業です。製造業である当社が強い部門、例えば3次元CADデータ製造などで、バックオフィスになりたい。

日本が繊維技術を導入したアーメダバード
 
アーメダバードで1カラー祭りに巻き込まれた
 インド西北部のグジャラート州は数年前に大地震が発生したし、宗教紛争のニュースも報道されているが、私がインドで最も大きく心を残した町でもある大都市がアーメダバード。

 300万ほどのこの町は落ち着いた美しい町である。過去にグジャラート州の海岸部で疫病が蔓延したことがあり、それを契機に清潔な州作りに心がけてきたのでこれまでにインドの中でもゴミが少ない美しい街を作ってきた。グジャラート州のアラビア海に面したポルバンダル(PORBANDAR)はマハトマ・ガンジーの生誕地である。現在の州都のガンジナガル(ナガルは町の意。マハトマ・ガンジーの町)は、アーメダバードから車で四十分ほど離れ人口は十万。マハトマ・ガンジーがこのアーメダバードでインド独立運動を開始した歴史があり、メインロードの交差点をガンジーが歩く像がある。マハトマ・ガンジーを敬う土地柄から、アーメダバード州では酒が飲めない。許可を得た外国人向けに酒を売る店はあり、外国人がホテルの自室に酒を持ち込んで飲むのことは自由だが、レストランでもお酒は出されない。アーメダバードがインドで最も治安が良いと言われるのは、酒を飲む人がいないことに関係していると外国投資誘致の高官らは自慢している。

アーメダバードの若者は偉そうではない
 グジャラート大学に学ぶ学生数は十万人。また同州には、外資一〇〇%出資で進出できる輸出加工区(FTZ)も古くからあり、近年は化学・薬品工業が発展している。州都ガンジナガル近くには、エレクトロニクス産業を誘致する工業団地もあり、ここに進出するとセールスタックスの軽減など税制優遇が適用されている。今後はコンピュータソフトやハードも育成する。同州のアランには、日本も援助した世界最大の船舶解体工場では、世界の海を引退した大型タンカーをスクラップにしている。

 アーメダバードは衣料技術を英国から導入、明治時代には日本に技術輸出もしたインドの衣料製造基地になった。アーメダバードの業界リーダーによると、一九五四年から英国のICI(インペリアル・ケミカル・インダストリーズ)やドイツ社から技術を得て、八〇年代からは世界市場に染料も輸出する力をつけてきた。英国東インド会社の最初の商館もアーメダバード南部のスーラト(SURAT)にあった。アーメダバードはサーバルマティ川が町を東西に分けており、西側には一九一五年にガンジーが独立を考えたガンジー・アシュラムがある。川岸に建つ凧(たこ)を意味する「パタン」という高層回転レストランからの眺めは抜群で、アーメダバード料理とサービスを満喫できる。明治時代には商業会議所の会頭であった渋沢栄一や大隈重信が当時の外務大臣に働きかけ、インドの進んだ織物技術を日本に導入するミッションをアーメダバードに送っている。同川にそって東北部にあるキャリコ博物館でこのインド古来染織物の歴史を知ることもできる。
アーメダバードのガンジーの「塩の行進」を記念した銅像がある交差点で

 アーメダバードのインド人の友人の紹介で、住宅ローンを扱うGRUHファイナンスという会社に行く機会があった。同社は百六十五人の従業員がいるが、内で五十人が女性と、インドでは珍しい女性か活躍する会社だった。インド民族服であるサリーに身を包んでてきぱきと働いていた。この会社のチーフマネジャーのハリスミタ・トゥリベリさんは一九七八年にグジャラート大学を卒業、二年後の八〇年には大学院を卒業してMBA(経営学修士)をとった小柄でファイトを込めた女性だった。大学を出て十五年間は電力会社で働いて、同社に再就職した。一言ごとに「オケ(OK)?オケ」と話す。トゥリベリさんは、米国の「オラクル」のデーターベース・ソフトを駆使していた。それを見ていると、いつの日か、日本はインドから再び技術導入する時代が来るのではないかと予感した。独身のトゥリベリ女史は、現在もグジャラート大学の大学院で博士号を狙って勉強も続けている。「あなたが私にとって話した初めての日本人です。日本の効率的で忠誠心を持たせる優れた経営システムは新聞記事で読んで知っています。当社では昇進面などで女性差別はまったくありません。私もさらに自分に付加価値をつけていつか社長になりたい」とはっきり。

ゴア訪問記
 
   
ポルトガル語で2004年こんにちわ
インド西海岸GOA
 
 ゴアには一泊200ドルするホテルが多数あるがどこもロシアなど世界の観光客で超満杯。上中央写真はゴアの首都パナジで、農民のデモとその向こうのマンドビ川に日本に向かう鉄鉱石の船が行きかっていました。
 
アラビア海に沈む夕日            
 
ゴア(GOA)へはムンバイ(ボンベイ)やニューデリーから海軍のダボリム(DABOLIM)空港に着く。

ゴア(GOA)は酒に対して寛大 

ゴアを代表する酒がカシューナッツや椰子を原料としている「フェニー」は透明で強い香りがある

16〜17世紀に建てられた多くの教会はバロック・ルネサンス様式にゴシック様式が加味されたもの

セ・カテドラル教会はアジア最大

その向かい側のボム・ジェズ教会は聖フランシスコ・ザビエルの遺体が安置されている

ゴアでは仏教寺院やイスラム寺院もヨーロッパの影響を受けたマグネッシュ寺院やシャンタ・デュルガ寺院も

コルバ・ビーチは40キロの白砂

アユルヴェーダ(Ayurveda)に基づくマッサージは

ANHC (Ayurvedic Natural Health Centre)はCalangute Chogm ROAD にある。Tel 2409036

6人のドクターに加えヨガのインストラクターがおり、まずドクターとのコンサルテーションを受けてから治療。インドの価格としては破格で数千円ほどかかる。

 
ゴア州政府ジャイスリー事務次官(Jayshree Raghuraman IAS)を
ゴア(GOA)州都パナジの事務次官室でインタビュー
 
 インドの各州(State)には選挙で選ばれた首相(Chief Minister)がいて、それとは別に中央政府(大統領)が任命する知事(Governor)がいるが知事には政治的な権限はない。州の行政組織は州首相(Chief Minister)の下で行政全般を補佐し、指揮しているのが州事務次官(Secretary of State IAS)で、中央政府(大統領)が任命するが実務的には絶大な権限を握っている。州各省には大臣(Minister)がいるが、これは州首相が任命、その下にやはり各省の事務次官(Secretary of Ministry、IAS)が中央政府から派遣されている。
 
海に突き出ているのはポルトガル植民地時代の要塞
 
日本に向かう鉄鉱石を積んだ船が海岸で座礁して4年間ほったらかし。
その前で日光浴のロシア人観光客。
 
GOA訪問記 松田健
 
 インドの西海岸、アラビア海に面したゴア(GOA)。

 ゴアへはいつか行って見たいと考えていたが、2003年の12月にやっと訪問できた。

 ゴアへは首都ニューデリーともむすばれているが ムンバイ(ボンベイ)からは日に10便以上の航空便がある。私はボンベイの国際空港からの国内線であるエア・インディアで行った

 「オールド・ゴア」にあるボン・ジェス教会は1594年に礎石され1605年5月に完成した。内部には聖フランシスコ・ザビエル(ST FRANCIS XAVIER)の遺体が公開されている。

 ザビエルは日本での布教の後に

 『中国広東の上川島に上陸したがそこで1552年12月2日に死んだ。遺体は1954年にゴアに運ばれ、聖パウロ学院に安置された後でボン・ジェス教会の修道院に移された。インド生まれのイエズス会員の金細工師が精魂を打ち込んで製作したインド様式の銀棺にはザビエルの生涯のエピソードが描かれている』(松田毅一著 黄金のゴア盛衰記 中央公論社)。

 今でも世界から巡礼者をひきつけている。ゴア中心部は半分近いインド人がカトリックで教会だらけといった風。地元インド人のザビエルの亡骸見物も多い。

 
   
右がザビエルの遺体が公開されている教会                               
 
 ゴアの人々は親切、タクシーもボラないなど、他のインドとはまったく異なる土地である。

 海岸の海の家には50年以上続く老舗もあり、そこで出される海鮮料理はきわめて美味しい。

 ゴアのホテルはクリスマスで西洋人、ロシア人で超満杯。一泊数万円はする高級ホテルばかりなのだが、宿泊予約は不可能で超満員。そこでゴアの入り口であるパンジン(Panjim)にあるマンドビ(MANDOVI)ホテルで40年間支配人を務めている

 
   
バスコダガマがインド航路を発見したゴアそばのバスコの町は日本向けの鉄鉱石の積み出し港になった
 
イエズス会の『聖パウロ学院』跡 かつて天正少年使節も滞在した
 
   
 
   
 
      
世界遺産オールドゴアの修復工事は遅遅として進んでいる
 
   
ザビエルの棺(上部)を掃除するおばさん                                   
 
   
 
   
                       ポルトガルが作った病院はすでに他に移転した
 
   
オールドゴアからアラビア海(上方)に向かうマンドビ川                                
 
   
                              一泊300ドルもするゴアのリゾートホテルは欧州やロシアからの
                              観光客で完全な満杯で予約もできない混雑ぶりゴアのビーチ
 
   
                               荒れ放題の教会にインド人修道女グループが訪問していた
 
   
修復された教会跡もあるが、だいたいはこんな状況
 
 写真とっていたら警備員がいっぱいやってきて止められたので 『この鉄鉱石は日本が買ってるんだぞ』と私は抗議して喧嘩に 『では この牛さんは撮っていいのか』と警備員(写真下)に聞いたから やっとこの警備員や運搬トラックから降りてきて喧嘩に加わったインド人もにっこり。 その始終を馬鹿な人間たちと? 見ていた牛さんをやけくそで撮ったのがこの写真 鉄鉱石鉱山玄関前で
   
 
   
 
   
インド西海岸のGOAでは中国向けの鉄鉱石積み出しが忙しそう
(アジアジャーナリスト・ 松田 健)
URL http://www.ne.jp/asahi/asia/halohalo/
E-mail mazda@k.email.ne.jp